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【短編】十条の戻り橋 2
2009-03-30
あれは、物心のついた護が初めて父の病室を訪れた時だった。
「護ちゃんもこちらへ来てお座り。」
初めて目にする父の姿に衝撃を受けた護は病室の中にいた祖母に声をかけられても入り口から動くことが出来なかった。
父の元へ誘おうと祖母が護の手を取り中へと引っ張る。
思わずその祖母の手を叩き払った護に母の叱咤する声が響く。
「護、あんたは何てことをするの。」
「いやだっ!!」
叫んで護は首を真横に激しく振った。
一度はベッドの上に注がれた視線は二度と父の姿を見ようとはしなかった。護は後ずさりドアの所まで下がるとそのまま病室を背にし一気に駆け出した。
病院の外へ出てもそのまま走り続けた。
病院以外何もない一本道である。
足がもつれて転ぶ。
「いやだ、いやだ、こんなところ、早く帰りたい」
立ち上がろうともせず、そのまま地面に突っ伏したまま動かなかった。
「くすくす・・」
声がした。しかし、顔を上げた護の周りには誰もいない。当たりをきょろきょろと見回したが、それでも声の主が分からない。
「ここだよ、ここ・・どこ見てんだよ。」
再びかけられた声は上の方から聞こえた。護は視線をもう少し上の方へと移した。
声の主は道を少し外れた場所にそびえ立つ大木の上にいた。
太い枝に腰掛け、足をぶらぶらさせている。
「そんなとこにいたら危ないよ」
護は思わず叫んでいた。
大声で少年は笑う。
「僕の名前はヒコ。お前・・・・」
「お前って言うな、僕には護っていう名前がある」
ぶっきらぼうに名乗る。
埃を払いながら立ち上がる護をヒコはじっと見おろしていた。
「じゃあ、護」
「何?」
「登ってこないかい」
「え?」
突然の誘いに戸惑った。
「まさか、木登りした事ないとか?」
「・・・・そんなの、あるわけないさ」
ヒコはじっと護を見つめた。
「じゃあさ、一度登ってみろよ」
「・・・出来ないよ」
「大丈夫だって、手を引いてやるからさ」
「でも・・」
「この上からの景色は最高だぞ」
「やだよ」
興味はある。興味はあるが一歩を踏み出せなかった。
「はーん、怖いんだろ」
「怖かないさ」
図星を刺された護はムキになって言い返した。
「じゃ、ほら・・・」
差し出された手に心は揺れた。
それでも、手が届くところまでは自分で上らなければならない。
護は唾を飲み込んだ。かといって、ばかにされたままも悔しい。近くにある枝に手をかけて勢いを付けて身体を持ち上げた。自然と太股に力が入る。力を抜くとそのまま下まで滑り落ちそうになる。
手が回りきらない木にしがみつくなんて初めての経験だった。
枝に手をかけ、うろに足をかけ、何とかヒコの手を取れるところまで上った。
ヒコは慣れたように護を引き上げる。
細っこい身体のどこにこんな力があるのかと思うくらいの勢いだった。
近くで見るヒコは、到底木登りなどしそうには見えない少年だった。
日に焼けていない青いくらいに白い肌。護より身の丈は少し大きいものの、痩せていて全体の作りが華奢である。
「あ、ほら」
ヒコが指さした。
思わず護がそちらを見ると、丁度山あいに日が沈むところだった。
千切れて漂う雲が夕日に染まる。
全てを茜色に染めてゆっくりと沈んでいく。
沈む夕日の周辺は陽炎のように揺らいで見える。
何も夕焼を見るのは初めてな訳ではない。別に夕日は地上からでも見られる。
けれども、今この時、ヒコと見た夕焼けは今まで見たものとは全く違っていた。いつもの目線よりも上から見下ろす景色に沈む夕日は格別だった。
春・夏・秋・冬・・・・、それからは、いつもヒコと駆け回って遊んだ。
護は自分とそう歳も変わらない筈のヒコにいろいろな事を教わった。
−ヒコ・・・ヒコ・・・大切な僕の親友。どうして長い間忘れている事が出来たんだろう。−
護は胸の中で叫ぶ。
大きな月が明るく辺りを照らす。
細い川を遡って上流へと向かう。
急な斜面に差し掛かった時、幾重にも分かれて流れていた川筋は一本となり広い川幅を見せた。
滑り落ちるように流れる水は川面を打ち付け、弾けて散る水滴は月光を受けきらきらと幻想的な世界を作り出していた。
「まーもーるー」
月明かりを遮る雲は振り返った護の目からヒコの姿を隠す。
つづく


