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【短編】情炎 〜辰哉そして竜真〜 四
2009-03-02
音も立てずに障子が開く。
一人取り残された姿子がぼんやりと肘を付いて庭先を見つめ座っている。
「姿子」
背後から聞き慣れた声に呼ばれて姿子ははっとして姿勢を正しながら振り向いた。
「辰哉さん?そちらから戻ってらしたのね・・・・」
姿子の言葉は途切れた。
そこに立つのは辰哉ではない。
「竜真さん・・・・」
辰哉と間違えた姿子の言葉は竜真の心に苛つきを生じさせた。
それは声のトーンに表れる。
「貴方も聞き違える程に僕と辰哉さんの声は似ていますか?」
「ごめんなさいな、でも声だけを聞いていると本当によく似ているの、それより茅子さん、具合でもお悪いの?」
機嫌を損ねた事に気づいた姿子の注意はすぐに青ざめた顔で竜真の腕に抱き上げられている茅子に向けられた。
かけた声に茅子の反応はない。
顔に触れようと延ばそうとした手が止まった。ようやく異変に気づいた姿子の表情が凍り付いた。
「どうしました?姿子さん」
姿子の様子を観察しながら竜真は笑みを浮かべている。
「竜真さん」
赤く染まる茅子と竜真の姿をはっきりと認識した姿子の声が震える。
状況を把握しようと忙しなく動かされる瞳は竜真の足下へと向けられた。
茅子の身体から吹き出す滴は竜真の手を伝い畳を、赤く、赤く染め上げていた。
何事もないように振る舞う竜真の纏う異質な空気に恐怖した姿子の足がゆっくりと確実に後ろへと下がった。
しかし、その足を先ほどまで座っていたテーブルが遮る。
不意に足を取られた形となって傾いた身体は畳の上に転がった。
竜真は障子を静かに閉めると茅子をゆっくりと座敷へと横たえた。そうする間も竜真の視線は姿子を捉えて離さない。
茅子から離れると今度は姿子の方へと向かって近づいていく。動くことの出来なくなった姿子の真正面で立ち止まった。
姿子からは竜真の足越しに、茅子が見える。
自分を見下ろす視線に姿子は顔を上げることが出来ない。しかし、やがて緊張に堪えかねた姿子がひきつった顔で竜真を見上げる。
表情は影になって、姿子にはよく見えなかった。ただ、頭上高くに振り上げられた刃が煌めくのが見えた。
それの振り下ろされた瞬間が姿子の目に映った最後の光景である。
蔵の中で辰哉はまだ一人座り込んでいた。
なかなか冷えない頭を冷やしてようやく辰哉が立ち上がったのは既に陽がかたぶきかけた頃だった。
まだ明かりの灯されない母屋を訝しげに思いながらも庭先から部屋の中を覗き込んだ。
広く取られた縁側からは残照でまだ中の様子がはっきりと確認出来た。
横たえられた茅子の姿。荒れた室内。部屋の端には竜真が膝を崩して後ろ向きに座っているのも見える。
酷く驚いた辰哉はその竜真に向かって声を掛けた。
「竜真くん、君、そんなところで何をしているんだい?これは一体どういう事だ?」
振り向いた竜真の貌が嫌悪で歪む。
辰哉の目にはその貌と共に人形のように身体を折って倒れ込んでいる姿子の姿が飛び込んできた。同時に辰哉の身体は床に叩きつけられた。振りかざされた刃に気づいた辰哉はのし掛かってくる竜真に力の限り抵抗した。
激しい音を立てながら大の男二人が揉み合い、その際についた数カ所の傷口からは血しぶきが舞い散る。
陽は完全に落ち全ては闇の中に包まれた。
その闇の中で動く影は一つ。静寂の中声が響く。
辰哉の声だ。
「茅子・・・・?」
「姿子・・・・?」
「竜真・・・くん?」
返事を待っては一人一人の名を呼ぶ。
しかし、返る声などない。
繰り返し、繰り返し一人呼び続ける声だけが空しく響いく。
「あぁ・・・・」と小さく絶望の溜息を最後に声は途絶えた。
翌日も太陽は昇り何事もなかったように一日は始まる。
ぱたぱた、と小さく足音が聞こえる。
さらりと開く障子の音に、愛しい者の声が続く。
「あにさま、お寝坊さんね。もうすっかり陽は高くなっていてよ」
既に目を覚ましていた辰哉が身を起こすと、茅子は満面の笑みを浮かべる。
いつも通りの優しい朝を辰哉は迎える。
茅子と姿子と弟のような竜真の揃う何一つ不満のない変わらない日常。
ああ、あれは悪夢だったのだ。と実感のない一日を過ごした後、辰哉は自分を納得させた。
そうすると、それまで硬く強張っていた顔の筋肉が緩んでくる。
至上の笑みを浮かべる自分を前に茅子も姿子も竜真も微笑む。
その一瞬は暖かい光に包まれた心穏やかさを辰哉に与えた。
「おい、やっこさん、笑っているぜ」
ガラス越しに映る人影が囁いた。
「幸せな時間にいるんだろうよ」
「しかし、事の真相は永久に闇の中・・・・か」
「あの惨状のたった一人の生き残りがあれでは知る術はなかろう」
男二人は事件を担当する刑事。見つめる先は・・・・。
辰哉は病院のベッドの上にいた。
崩壊した意識に、その目はもう現実を映さない。
たとえ、正気を保っていても辰哉には自分の知る事実以外の真相を知らない。
真相を知りたがる大衆が知ることが出来るのは、茅子と姿子を竜真が手をかけ、その竜真を辰哉が身を守ろうとして過って死なせてしまった事実だけである。その事実すら個々人の想像力の前では失われてしまう。ただ彼らの好奇心を擽るネタを提供するに止まるのである。
竜真の心の奥で何があったのか、など辰哉にもわかりはしないし、語る事の出来る言葉でなど表せるものではない。
僅かに知る情報のその一片でもって心の闇の全てを理解した気になるのはなんと傲慢な事か。
今では現実を離れ変幻自在な世界に生き続ける辰哉はその寿命を終える瞬間でさえももう胸を焦がす苦痛に苦しめられる事はないのである。
終わり


