猫なイヌとか、犬なネコとか・・・?
2008-07-09
うちのイヌは非常に猫的なイヌである。秋田飼いに聞くと大抵が同じような事を言っているのでどうやら、この犬種はそういう性質を持っているのだろう。
さて、どういうところがネコだろうか?
イヌを残して外出する時、行って来ますと部屋をのぞく。
寝姿のままちらりと見ただけで、そのまま、また目を閉じて寝てしまう。
帰ってきて、ただいま。と挨拶しても素知らぬ顔である。

もちろん、散歩に行くときもさして喜びを表さない。
「ああ、行くのぉ?」ってな感じでよっこらしょと立ち上がる。
ただし、外に出るとそこはやはり犬、他の人には非常に愛想がよい。
オーナーを無視して他の人にべったりなのである。
わたしが他の犬を可愛がっていても気にもしやしない。
黙って姿を消しても追いかけてもこない。
遊びながらそのまま、また迎えに来るのを待っているのだ。
そして犬ならお得意の筈の「持ってこい」これをしない。
確かに放ったボールをたまに気紛れに追いかける。
しかし、結局わたしが取りに走らねばならんのだ。
近くに寄り添って座れば、むっくりと起き2,3歩離れて座りなおす。
名前を呼んでも振り向きもしない。
お前たちっ!愛はないのか?(T^T)
さて、うちのネコである。
彼らは非常に愛情溢れている。
わたしが行くところどこへでもついて回る。

出て行く時はぎりぎりまでお見送りをしてくれる。
家に帰ってきた気配がすると途端ににゃぁと声を立てる。
風呂やトイレに入ったらそのまま出てくるまでドアの前で待っている。
突然姿が見えなくなると、にゃぁにゃぁ攻撃でうるさい。
ゆっくりと腰を下ろそうものなら即座に飛んでやってきて膝の上や身体の側面に寄り添う。
他のネコを可愛がっていたりするとヤキモチをやく。
そして、なんとイヌのしない「持ってこい」をするのである。
口にくわえて、てってけ、てってけとこちらへ走ってくる姿の可愛いこと!
「お座り」の号令でお座りが出来るコもいた。
名前を呼ばれると必ず顔を上げる。返事をする。
時には重すぎる位の愛情を注いでくれるのだ。(*^^*)
これこそがうちのネコの実態だ。
世間は、イヌとネコの行動認識を違えている・・・・と思う。
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家族の一員とか、ペットとか・・・?
2008-07-10
動物と暮らしていて気づく事がある。
昔はペットの呼び名が一般的だった。愛玩動物。だからと言っておもちゃ扱いしている訳ではない。
それが時代の流れとともに変わってきた。
まるでその言葉は差別用語であるかのように過剰な反応を示す人がいるのだ。
ペット。と呼ぼうが大事にしている人は大事にしているし、家族の一員と呼ぼうが、おもちゃのように扱っている人はそう扱っているのだ。
なのに言葉一つでまるでその人の動物に対する扱いを決めつけられてしまう。
わたしも一時期は時代のうねりに飲み込まれて意識的にペットと言う言葉を使わず、極力家族の一員と呼ぶようにした時期があった。
オス、メス、と呼んではいけない。男の子、女の子と呼ばねばならない。
動物病院に至っては患畜と言ってはいけない。患者といわなければならない。
そして、この人、あの人・・・とくる。
だが、気がついた。あまりに馬鹿げている。
擬人化すれば全て人間と同等の愛情を注いでいる事になるのだろうか。
・・・と言うか、そんな事でしかかけた愛情をはかれないのは変である。
ペットと呼ぶ人を侮蔑する。
そんな中にいるのは疲れた。
わたしは呼びたいように呼ぶ事にした。たかが言葉一つである。それでわたしのかける愛情が変化するものではない。
犬は犬だし、ネコはネコだ。
決して人ではない。
だからといってかける愛情が劣っている訳ではない。
飼い犬、飼い猫と言う言葉すら嫌悪する人もいる(^^;)
言葉だけを狭義的にしか捉えられない人はそうするがいい。
世の中、変だ・・・・・。
むかし、ネコに愛情を注ぐわたしにある人が言った。
どれだけ、ネコが好き?
汚れてどろどろになったネコと同じ湯船に浸かれる位に好き?
・・・・・汚れてどろどろの相手だったらどんなに好きな人でもイヤ。
そんなもので、愛情をはかるものではない。
『仔猫の見る夢』 創作背景
2008-07-14
昔の知人に動物保護活動を積極的に行っていた方がいる。うちの歴代のネコたちはただ1匹を除き、捨てられた仔猫たちである。(中には野良のお母さんからはぐれた子もいるかも・・・・。)
幸いに授乳期を過ぎた仔猫たちだったので何とかみんな無事に育てる事が出来た。
少なくとも乳離れするまでは母ネコの側で育てられて来た。と言う事である。野良猫の子供との違いはその懐っこさにある。警戒心が非常に薄いのだ。ぬくもり恋しいのか、簡単に何にでも寄ってくる。
片や野良猫の子供はやはり野良猫の子供である。仔猫と言えども簡単に隙を見せない。世の中で生きていく知恵を生まれ持っているとしか思えない。
話を戻そう。
その動物保護活動を行っている知人は、どうしても目を背けたい現場に遭遇する事になる。
わたしのように偶然に捨て猫に出会ってしまう訳ではなく、通報を受けて飛んでいくのでその確立は非常に高くなる。
わたしはへその緒のついた仔猫が捨てられている場面に出くわした事はないが、その人の言う事には、件数としてはとても多いそうだ。
しかも本当に生まれたばかりの仔猫がゴミの日にゴミ山に捨てられていたりすると言う。
仔猫が生まれて困るのならば、何故飼っているネコにそういう処置をしておかないのだろう。という疑問と共に怒りがこみ上げてくる。
また、仔猫を産ませる理由の一つにショーの存在があった。
ショーをしている人なら耳にした事があるかも知れない。
メスであれば出産をしているかしていないかで、その状態に善し悪しが出てくると言うのである。
未経産であれば、一度子供を産ませなさいと言う。そうすれば状態があがるから・・・と。
あまりに馬鹿げている。馬鹿げているが、それをそのまま信じ込んで仔猫を産ませる人がいる。仔猫が欲しくて産ませる訳ではないので生まれた仔猫は邪魔なものでしかない。
よってへその緒のついたままの捨てネコが誕生する訳だ。
わたしは血統書に拘る人種が酷く苦手だった。
話をしていて、うちのコは血統書付きで・・・と来ると「それが一体、何になるの?」と、軽蔑すら覚える。
勿論、全てが全てそういう人ばかりでない事は理解している。・・・・が、その嫌悪感が抜けるのにかなりの期間を要した。
つまり自分が犬を飼って、純血種という存在に惚れ込むまでは理解し難い世界だったのだ。
それでもやっぱり今でも当時の自分と今の自分は、その矛盾に葛藤を繰り返す。
そんな行為をする人たちでも自分が飼っているネコは可愛いのである。
でも、生まれた仔猫はまだその愛情を注ぐ対象ではない。ただの物体で困る原因でしかないのだ。だから惨い事でも平気で出来る。
わたしの憤り、怒りはピークに達する。
しかし、自分には何も出来ない。無力な自分が情けなかった。
犬飼いの知人が近所の犬の事を日記で書いていた。
避妊手術をしていないその牝犬はヒートの度に、放し飼いの牡犬に妊娠させられ出産を繰り返す。
生まれた子供は離乳するまでは母犬の側で育てられるが、その後は保健所に連れて行かれる事を知ったそうだ。
何故、保健所なのかと言うと、子犬ならば保健所で里親を探してもらえるからと思いこんでいるかららしい。
無知もいいところである。
子犬ならば里親が見つかる可能性は少しは上がるかも知れないが、そんなものはほんの僅かでしかありえない。
持ち込まれた犬は即日処分されるのである。
避妊手術をしない理由の一つに自然に反するから・・・とか可哀想だから・・・とか尤もな理由をつける人がいるが、万が一があった時、その命に責任が持てますか?
と自分は問いたい。
うちの犬もネコも全てが避妊・去勢手術済みである。
でも、産ませて育ててあげられるものなら、その命の誕生を喜んであげたいのが本音だ。
エゴにつぐエゴを目の当たりにし 『命を考える』 事を突きつけたいわたしに、この話はこうでしか考えられない。
この話での 「救い」 は仔猫が母ネコのお腹の中で生きていくために教えてもらった話で例え夢の中でも、自分の一生を生き、最期に「生まれてきてよかった。」と口にして虹の橋に向かう事だと自分自身は思っている。
現実はそんな事はない、生まれてきた意味すら知らずに人の手で無惨に命を奪われて終わるのだ・・・・・。
わたしには伝えたい事がある時、都合のいい事だけ見て都合の悪いことは見ない。そんな話はきっと書けない。
非現実的な中にも確かに現実は存在するのだから・・・・。
動物病院とか、獣医療とか・・・・・・
2008-09-15
動物を飼っていると動物病院へ行く事がある。
一生涯を健康に長生きしてくれるのならそれに越したことは無いけれども必ずしもそういう動物ばかりではない。
我が家では飼っている動物が多い為、今までにそういう嬉しくもない事態に遭遇する事が多かった。
しかも、難儀な病気ばかりなのだ。
病気になったら自分ではどうしようもないので獣医師に頼るしかない。何も知らないので獣医師任せになる。
しかし、うちの子の事を一番よくわかっているのは、自分以上にはいない。
動物は動物であって、人間ではない。
人間にもいろいろな性格、性質の人間がいるように、動物も然り・・・である。
何度も動物病院へ足を運んだ分だけいろいろな獣医師に接する機会があった。
それぞれがそれぞれの考え方を持ってるはず・・・・である。
いい動物病院・・・・とは、考え方に共感できる獣医師のいる病院。と言う事にほかならない。とわたしは思っている。
病気に対する治療をする。
それは確かに間違ってはいない。
けど、今人間でも問題になっているように、延命というのはそんなに大事なのだろうか。
治すために必要な事だから動物に我慢を強いる。
その事を考える。
昔は治る可能性が僅かでもあれば、何が何でも治ると信じて治療費に糸目は付けないとばかりに積極的な治療をお願いした。
しかし、ある時を境にその考え方が揺らいだ。
とても神経質なネコがいた。飼い主にさえ気を許さないくらいに、外的刺激に弱い子だった。常にびくびくしているのであまり体重は増えなかった。小柄なネコである。幸いにも同居ネコと仲が良いのと、人間は殆ど家にいないのでそのネコのストレスとなるものは最低限で済んでいた。
ところが病気になった。治らない病気。永続的な治療の必要な病気。
どうしても病院へ行かなければならない。入院・退院してからの毎日のような点滴。
このネコの苦痛はどれほどのものだったのだろうか・・・・。
ある時、いつもと違う獣医師の先生が仰った。
入院させてもいいけれども、治るものではないし、そのまま死んでしまう事もあります。この病気の予後は予測が付かない。手元において診てあげる事も選択出来ますよ。
諦めない。と積極的に治療をした挙げ句、最悪の状態でもないのに、裏から聞こえてくる爆竹の音に怯えたまま亡くなってしまった。
治療をした分、命は長らえたけれども最後は、幸せだったのだろうか・・・・・。神経質なその子に家での治療もかなり負担になったのではないか、と思っている。
それ以来、わたしはもう治らない病気であるのなら積極的な治療をする事をのぞまない。・・・・とはいえ、それは勿論その子の性質に拠る訳なのだけれども・・・。
とことんまで治療に応えて生き続けたネコもいた。
・・・・・もって生まれた性質なのだ。
今家にはその子と同じくらい、もしかしたらそれ以上かと思われるほどに神経質な子がいる。
家から連れ出す、と言うことは、その子にとってこれ以上ないストレスになるのだ。
家にいてもわたしでさえ、出来るだけ近づかないように、ストレスを与えないように・・・・と気を使う。
平和で心安く暮らしてくれればそれでよいのだ。ずっと病気になったらどうしよう。と思っていた。その時の事をいつも考えてある決心をしていた。
何もしない。
その子が同じ病気になった。病院へ連れて行くだけで死ぬのでは・・・・・と心配になる。
どうせ助からないのであれば、ストレスを与えずに家で静かに過ごさせていたいのである。万が一の事があったとしてもそれはそれで仕方がない。と自分に言い聞かせる。
それでも、少しでも楽になる為の治療を放棄するつもりはない。出来る範囲でしてあげたいのだ。
火曜日に入院して、土曜日に連れて帰ってきた。
病院での治療の効果よりストレスの方が心配だったからだ。他の子と同じ性質ならば、これで安心と言うまで入院させておいて下さい。と頼むところだ。
でも、わたしが側にいる事も望まない子に何をしてあげられるのだろう。
例えこのまま病気が悪化して死んでしまってもそれはそれで仕方ない。と自分を納得させるしかないのである。
ねこにゃん日記・・・・とか
2008-12-10
冬がやってきた。冬と言えば名物ネコ団子。
ねこが丸まって団子状態になって眠るのである。
先代のねこたちはとても仲が良く7匹が固まる事もままあった。
今の子たちでは見られない光景である。
世代がきれいに分かれているせいだろうか。
先代までは1年おきに増えていったようなものなのでそれぞれに歳が近く、ボス役も心の広いネコで分け隔てなくあとから仲間入りしたねこの面倒を見てくれたおかげだろう。
今の子たちは・・・・10歳台が同時期に2匹。篝はいなくなったが、2匹から6年離れて篝の年代が2匹、そこから8年離れて末っ子がきた。
先の2匹が三毛と白。後の二匹が三毛と白。
二匹二匹で仲良しこよしvs仲良しこよしだった。
後から入った茶虎は上手に二匹二匹の間をいったり来たり。
篝のペアは片割れが突然いなくなってこの冬は一匹でねこ団子になっている。
最初はにゃぁにゃぁ鳴いていたが最近はそれもしなくなった。
不憫で思わず手をかける。かけると先のねこペアが我も我もと割り込んでくる。
今年の冬はネコを構うのに忙しくなりそうである。
両手両足を使って丁度4匹。大変である。