【短編】十条の戻り橋 1
2009-03-01
護には父がいない。正確にはいるのだけれどもずっと入院していて会うことはない。
母に連れられていった病院でベッドに横たわったままの父は様々な医療器具を付けられてまるでその一部であるかのように、ピクリとも動かない。話しかけても何の反応も返ってこない。
母が父方の親戚に辛く当たられて泣いていた姿だけがまだ幼い護の記憶に鮮明に残る。
程なくして、離縁されて母は父方の家から追い出された。
「あの人たちは、母さんにひどい事をした」
「違うのよ。護、おばあちゃんたちは・・・・」
「聞きたくない」
「護。待って、護。話を聞いてちょうだい」
父の話になると護は頑なに心を閉じて何一つ話を聞こうとしなかった。
部屋に閉じこもって一歩も外に出てこない息子の姿に、やがて諦めた母は父の事を口にしなくなった。
夜中に目が覚めると、時折、母が父の写真を眺めてぼぉっと座り込んでいる姿を目にする事もあったが知らぬふりを決め込んだ。
遊んでもらった記憶も抱いてもらった記憶もない。物心がついた時には父は既に病院にいたのだ。護にとって懐かしむ父はいなかった。
そんな護も来年には中学にあがろうかという頃、その父の死の知らせが突然舞い込んだ。
青ざめた顔の母は嫌がる護を連れて急ぎ田舎へと向かった。
微かに見覚えのある鳥居を抜けて北へまっすぐと何もない道をバスは走る。終点で降りると母を迎えに来ていた祖母がバス停に立っていた。
「遠いところをよぉ来てくれた」
祖母は母の荷物を持ち家へと招き入れた。すっかり年老いた祖母の顔は穏やかに見える。
葬儀は既に終わっていた。
近所に住む親戚だけが僅かに残る中、母が深く頭を下げ挨拶をしている。
懐かしそうに笑みを浮かべる親戚にも目をくれずに、護は与えられた部屋に閉じこもった。
「護ちゃん、菓子があるきに食べに降りてこんかね」
掛けられる声に返事もしない。
護に母の叱り声が飛び込んできた。
「護、いい加減にしなさい・・」
しかし、それも祖母の声に止められた。
「いいから、いいから、気持ちの整理がつかんのじゃろ、それよりあんたはこっちに来てゆっくりしんさい」
襖の向こうの気配は消えた。
護は畳の上に寝転がる。
「ちぇっ、何だい、あれだけ泣かされていたくせに」
天井を見つめ、母の態度に不満を漏らす。
そんな護を笑う声が窓の向こうから聞こえてきた。
「相変わらず、拗ねているのかい」
屋根を乗り越えて窓から顔を出しているのは、護とそう歳の頃も変わらない少年だった。
目を丸くして黙ったまま見つめる護に少年が残念そうな顔を見せる。
「何だ、忘れたのか?俺のこと」
「あっ!」
暫く記憶の底を探っていた護はやっとその顔を探り当てて声をあげた。
「ヒコ!ヒコだね」
すっかり思い出した護の目の前の少年は記憶よりうんと成長しているものの変わらぬ懐かしい笑みを見せている。
ヒコ、彼は護が幼い頃、この土地に住んでいた時の友達だ。
同じ年頃の子供のいないせいもあって護はいつもヒコといた。
「思い出したな、護」
護に向かって真っ直ぐに手を差し出した後、ヒコは屋根から飛び降りて窓の下に立った。そうだ、ヒコはいつもこうやって窓から顔を出して護を外へと誘いにきた。
護は少し躊躇って後ろを見たが、階下から聞こえる笑い声に窓に手をかけた。
手際よく飛び降りたヒコと違い、足場を確認しながらゆっくり慎重に降りた。もう何年も経っている。昔のようにはいかない。
「遅いぞ。護」
やっと地面に着いた時、ヒコは先に走り出していた。
「無茶、言うなよ。何年経ってると思うんだ」
護もヒコの後を追って駆け出した。
湿った土が素足に気持ちがいい。
走っているうちに護の心はすっかり忘れていた昔に戻っていく。
つづく
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【短編】十条の戻り橋 2
2009-03-30
あれは、物心のついた護が初めて父の病室を訪れた時だった。
「護ちゃんもこちらへ来てお座り。」
初めて目にする父の姿に衝撃を受けた護は病室の中にいた祖母に声をかけられても入り口から動くことが出来なかった。
父の元へ誘おうと祖母が護の手を取り中へと引っ張る。
思わずその祖母の手を叩き払った護に母の叱咤する声が響く。
「護、あんたは何てことをするの。」
「いやだっ!!」
叫んで護は首を真横に激しく振った。
一度はベッドの上に注がれた視線は二度と父の姿を見ようとはしなかった。護は後ずさりドアの所まで下がるとそのまま病室を背にし一気に駆け出した。
病院の外へ出てもそのまま走り続けた。
病院以外何もない一本道である。
足がもつれて転ぶ。
「いやだ、いやだ、こんなところ、早く帰りたい」
立ち上がろうともせず、そのまま地面に突っ伏したまま動かなかった。
「くすくす・・」
声がした。しかし、顔を上げた護の周りには誰もいない。当たりをきょろきょろと見回したが、それでも声の主が分からない。
「ここだよ、ここ・・どこ見てんだよ。」
再びかけられた声は上の方から聞こえた。護は視線をもう少し上の方へと移した。
声の主は道を少し外れた場所にそびえ立つ大木の上にいた。
太い枝に腰掛け、足をぶらぶらさせている。
「そんなとこにいたら危ないよ」
護は思わず叫んでいた。
大声で少年は笑う。
「僕の名前はヒコ。お前・・・・」
「お前って言うな、僕には護っていう名前がある」
ぶっきらぼうに名乗る。
埃を払いながら立ち上がる護をヒコはじっと見おろしていた。
「じゃあ、護」
「何?」
「登ってこないかい」
「え?」
突然の誘いに戸惑った。
「まさか、木登りした事ないとか?」
「・・・・そんなの、あるわけないさ」
ヒコはじっと護を見つめた。
「じゃあさ、一度登ってみろよ」
「・・・出来ないよ」
「大丈夫だって、手を引いてやるからさ」
「でも・・」
「この上からの景色は最高だぞ」
「やだよ」
興味はある。興味はあるが一歩を踏み出せなかった。
「はーん、怖いんだろ」
「怖かないさ」
図星を刺された護はムキになって言い返した。
「じゃ、ほら・・・」
差し出された手に心は揺れた。
それでも、手が届くところまでは自分で上らなければならない。
護は唾を飲み込んだ。かといって、ばかにされたままも悔しい。近くにある枝に手をかけて勢いを付けて身体を持ち上げた。自然と太股に力が入る。力を抜くとそのまま下まで滑り落ちそうになる。
手が回りきらない木にしがみつくなんて初めての経験だった。
枝に手をかけ、うろに足をかけ、何とかヒコの手を取れるところまで上った。
ヒコは慣れたように護を引き上げる。
細っこい身体のどこにこんな力があるのかと思うくらいの勢いだった。
近くで見るヒコは、到底木登りなどしそうには見えない少年だった。
日に焼けていない青いくらいに白い肌。護より身の丈は少し大きいものの、痩せていて全体の作りが華奢である。
「あ、ほら」
ヒコが指さした。
思わず護がそちらを見ると、丁度山あいに日が沈むところだった。
千切れて漂う雲が夕日に染まる。
全てを茜色に染めてゆっくりと沈んでいく。
沈む夕日の周辺は陽炎のように揺らいで見える。
何も夕焼を見るのは初めてな訳ではない。別に夕日は地上からでも見られる。
けれども、今この時、ヒコと見た夕焼けは今まで見たものとは全く違っていた。いつもの目線よりも上から見下ろす景色に沈む夕日は格別だった。
春・夏・秋・冬・・・・、それからは、いつもヒコと駆け回って遊んだ。
護は自分とそう歳も変わらない筈のヒコにいろいろな事を教わった。
-ヒコ・・・ヒコ・・・大切な僕の親友。どうして長い間忘れている事が出来たんだろう。-
護は胸の中で叫ぶ。
大きな月が明るく辺りを照らす。
細い川を遡って上流へと向かう。
急な斜面に差し掛かった時、幾重にも分かれて流れていた川筋は一本となり広い川幅を見せた。
滑り落ちるように流れる水は川面を打ち付け、弾けて散る水滴は月光を受けきらきらと幻想的な世界を作り出していた。
「まーもーるー」
月明かりを遮る雲は振り返った護の目からヒコの姿を隠す。
つづく