【短編】情炎 ~茅子~
2008-12-18
その夜、辰哉はなかなか寝付けないでいた。コト・・・・
夜更けに奥の部屋から聞こえてきた物音。
奥には15も歳の離れた妹、茅子の部屋がある。
まだ眠っていなかったのか。
ぼんやりとした頭で茅子の事を考える。
早くに父母を亡くし、辰哉が親代わりとなり大事に守り育ててきた妹だ。
豊かな黒髪に長い睫毛に縁取られた黒めがちの大きな瞳、透き通るような白い肌に桜色の頬、濡れたように艶やかな紅い唇、日本人形のように美しい姿に鈴の鳴るが如き涼やかな声。
年頃になり、一層その美しさを増していた。
美しい茅子の噂は隣町にまで届き、最近では縁談話がひっきりなしに舞い込むようになっていた。
夕飯時にその茅子が、突然妙な事を口にしたのだ。辰哉は思わず茅子を厳しく叱責していた。
紅く魅惑的な唇から漏れ出た茅子の言葉を思い出す。
「ありえない・・・」
そう呟いて首を振ると布団を頭から被った。
しかし、無性に妙な胸騒ぎがする。
一度は深く被った布団をはね除けて、起きあがると急ぎ茅子の部屋へと足を運んでみた。
茅子の部屋にはまだ煌々と明かりがついている。
そしてその明かりに照らし出された人影は、宙でゆらゆらと揺れていた。
あり得ない空間に浮く影の有様が辰哉の頭に恐ろしい想像を浮かべさせる。
脈は速まり心臓は鷲掴みにされたように痛み出す。息をする事さえ忘れ廊下に座り込む。
青ざめた顔でいざって進む。
障子に手をかけるが、その手を動かすことが出来ない。
自分の鼓動だけが速く大きく耳に付く。
辰哉はきつく瞼を閉じ、手に力を込め思い切って障子を引いた。
異臭が鼻をつく。
「かやこ・・・・」
恐れから目を開けることが出来ずに妹の名を呼ぶ。しかし、返事はない。
開け放った障子は閉じた瞼越しに光を届け、部屋の中で揺れる影をはっきりと映す。
辰哉は恐る恐る瞼をひらいた。
突きつけられた現実に愕然とする。目に飛び込んできた光景を信じたくはなかった。
なのに今度は開いた目を閉じる事が出来ない。瞬きもせずまます大きく大きく見開いていく。
ゆらゆらと揺れていたのは天井の梁に襷をかけ首を括った茅子の影だった。
美しかった姿は微塵もない。
顔を歪ませ目を剥き、半開きの口からはだらしなく赤い舌が覗く。
弛緩した筋肉のせいで身体中の穴という穴から排泄物は流れ出し畳を汚す。
変わり果てた茅子の姿に辰哉は両手をついて完全に座り込んでしまった。
しかし、すぐに辰哉は震え、がくつく膝を押さえて立ち上がると、梁に掛かる襷を外し茅子を下ろした。
茅子を床に横たえ、警察に電話をしその到着をまつ。
目の前の動かぬ茅子を前に辰哉には言葉もなく涙もない。
その視線の先は何も捉えずただ淡々と行動する。まるで心を揺るがす出来事など何もなかったかのような機械的な動作。
今の辰哉に心は宿っていなかった。
映画か何かを見ているかのように、冷めた目で一歩離れた場所から傍観する自分を感じていた。
遺書などは見つからなかったが状況から判断して警察は自殺と断定した。
茅子を永遠に失った事実を前に辰哉には今一つ現実味がわいてこない。
葬儀はしめやかに執り行われ、辰哉は全ての物事を冷静に処理していく。
みなは口々に不思議がった。
旧家に生まれ育ち、親の縁には薄かったものの只一人の兄に溺愛され何不自由なく育った誰もが羨む娘、それが茅子だった。
葬儀は滞り無く執り行われていく。終盤に近づいた頃、辰哉の前に一人の女がそっと近づく。
女は姿子といい、茅子を育てる辰哉と長く付き合ってきた幼なじみの恋人である。
少しとうがいっているものの美しい面もちの清楚な美人だ。
「辰哉さん、わたしにお手伝い出来る事はあるかしら・・・」
居並ぶ親戚たちの手前、遠慮がちに声を掛ける。
「ありがとう、でも大丈夫だから、一人にしておいてくれないか」
姿子は黙って辰哉の言葉に従う。
落ち着き払って見える辰哉のその心の奥底を思うと何も言えない。
弔問客は去り、親戚も一人、また一人と慰めの声を掛けながら帰っていく。
人の気配の消えた広い屋敷内に辰哉一人が取り残された。
閉め切った部屋の中には線香の匂いが立ちこめている。
微笑む茅子の遺影を前に最後となった夜を思い出していた。
あの夜、辰哉は多くの縁談話に上機嫌で茅子に似合いの男性を見繕っていた。
「茅子はどの方の元に嫁にいきたい?」
そんな兄の様子とは裏腹に歳の離れた妹は浮かない顔をしている。
「嬉しくはないのか?こんなに沢山の方がお前を是非にと望んでくれているのに」
「あにさまは、わたしが他の方のもとに嫁ぐのがそんなに嬉しいのですか?」
「おかしなことを言う」
笑いながら辰哉は数年前、茅子を訪ねてきた男友達に胸がちくりと痛んだ事を思い出していた。
辰哉の態度に茅子は手にしていた箸を膳の上に揃えておくと、ついと後ろに下がった。
そして姿勢を正し両手を揃え、つつっと辰哉に向かって膝を進めたあと深く頭を下げた。
「どうした?」
「あにさま、茅子はずっとこの家におりとうございます」
震える声で頭を下げたまま、そう願い出る茅子に辰哉は戸惑った。
茅子はもう22歳。決して早い縁談ではない。何がそんなに厭なのかわからなかった。
「茅子、華の盛りは短いぞ。請われて嫁にいく。お前にとってこれ以上の幸せはあるまいに、何をそう厭がるのだ」
茅子は頭を畳に付けたてただ黙って首を横に振り続けた。
「茅子・・・黙っていては分からない。訳を言ってごらん」
茅子は手を突いたままようやく顔をあげた。
少し乱れた前髪が額にかかる。
きゅっと結んだ口で思い詰めた顔のその目は真っ直ぐ、と辰哉を見つめる。
辰哉はそんな茅子の目を見つめ返した。
茅子がやっと重い口を開いた。
「茅子はあにさまを、あにさまだけを幼い頃よりただ一人の殿方としてお慕い申しあげております。後生ですからお嫁になどやらないで下さいまし。どうかいつまでもお側に置いて下さい」
「ばかなことを・・・何を言っているのか自分で分かっているのか」
突然の最愛の妹の告白に辰哉の声がうわずる。
動揺する兄を前に茅子は目を閉じてすぅっと息を吸って吐いた。
次に開いた瞳には、決意が宿る。
茅子は自分の手で着物の胸元をはだき、畳の上をすっと擦り寄ると辰哉にしなだれかかった。
茅子の露わになった白い乳房に目が釘付けになる。
辰哉は逆流する血が身体の一点に集中し膨張するのを感じていた。
茅子の白い細い腕が辰哉の首に回される。
「あにさま、せめて一夜だけでもお情けを頂戴しとうございます」
美しい茅子の妖艶な紅い唇が紡ぐ言葉は、兄という立場の辰哉にとっても極上の誘惑になった。
しかし辰哉の理性はその誘惑に打ち勝つ。
熱を帯びた身体で縋り付く妹を自分から引き放した。
「あにさまっ!」
拒絶された茅子の声は悲鳴に近かった。
「なんと恐ろしいことを・・・・同じ血を持つ兄相手に肉の交わりを願うなど・・・・茅子、今日のお前はどうかしている。頭を冷やしなさい」
立ち上がって部屋を出ていこうとする辰哉の足に茅子は外聞もなく追いすがった。
そうまでして自分を求めてくる茅子の姿に辰哉はぎりぎりの理性が吹き飛びそうになる。
辰哉の手は思わず茅子の頬を打った。手をあげたのは初めての事である。まるで自分自身を打ったかのような痛みが走る。
「あさましい真似はやめなさい」
茅子を一人残して部屋を後にする。
背後から聞こえてくる自分を呼ぶ茅子の声に、一層激しく脈打つ己に気づき辰哉は恥じ入った。
「あさましいのは、この身だ・・・」
一人自室にこもり美しい妹に惑いそうになった自分を戒める。しかし、心に反する身体をなかなか鎮める事ができなかった。
茅子がいくら懇願しても自室から出ようとはせず声すら掛けようとしない。
そんな辰哉の態度に茅子の心は絶望の色に染まる。
その深夜、茅子は自ら命を絶った。
「茅子・・・お前はどれほどの決意でもってあの言葉を口にしたのだ・・・」
ひっそりとした部屋の中で少しずつ現実に戻ってきた辰哉は茅子の秘めた胸の内を思い涙した。
問いかける茅子の遺影は何も語らない。
悔いても戻らぬ茅子に掻きむしるように髪を掻き上げる。
その時、目頭を熱くする辰哉の首筋にひやりと冷たいものが触れた。
その感触には覚えがある。
あの夜の茅子の白く細い指。
赤く充血した目を見開いた辰哉が目にしたものは間違えようのない茅子の姿だった。
『あにさま・・・』
聞き慣れた声が耳に響く。
『あにさま』
愛おしそうに兄を呼ぶ。
辰哉は二度と逢えないと思っていた妹の姿に思わずその身体を抱きしめていた。
『この身は、あにさまとの血肉の繋がりなど断ち切りました。最早恐れるものは何もございません』
その言葉は再び辰哉を現実に引き戻した。我に返った辰哉は茅子から離れようとするが、力一杯かき抱く茅子の身体に押さえつけられ身動きがとれない。
『あにさま、後生です。後生ですからあにさまの肉の棒で茅子を裂くように貫いて下さいまし』
相も変わらず、肉の交わりに執着する魂に辰哉は目を閉じた。
「茅子・・・お前は既にこの世にはないものだ」
辰哉の心に恐怖はない。自分を想うあまりに迷う妹の姿にただ哀しみだけが募る。冷静に対処しようとする言葉と心とは裏腹に辰哉の身体は過敏に茅子に反応を示していた。
閉じた目を開けて茅子を見ようとはせずじっと身体を硬くする。
『あにさま・・あにさま・・・』
決して応えてくれようとしない辰哉を呼び続ける切ない茅子の声が一晩中響く。しかしそれも夜明けを告げる鳥の鳴き声と共に闇へと消えた。
闇を照らし出す朝日がまぶしく目に染みる。
辰哉は顔を覆う。目を閉じても茅子の姿が焼き付いて消えることがなかった。
ジリリリリ・・・・と静寂を破り鳴り響くベルの音に電話を取ると受話器の向こうからは姿子の声が聞こえてくる。
辰哉の様子を心配しての連絡だった。
ゆっくりと落ち着いた姿子の声がまるで雑音のように感じる。
恋人の声だというのに頭に入らずただ耳を通り過ぎてゆく。
電話を切った辰哉は寝転がって茅子の事を考えた。食事すら取る気にもならずに、ただ答えの出ない考えを頭に巡らす。
その日から夜な夜な茅子の魂魄は辰哉の元を訪れた。
辰哉はそんな茅子をただ哀しく見つめるだけで触れようとはしない。
茅子も初日の激しさは形を潜め、黙って辰哉の側にいるだけだった。
六日めの夜が明けようとする。
『あにさま・・・茅子があにさまの元に通うことが出来るのは明日が最後でございます。どうぞお心をお認めになって下さいまし、あの日茅子に反応して下さったあにさまのその身体こそが正直なお心ですのに・・・・・』
そう言い残すといつものように夜明けと共に茅子の姿は消えた。
辰哉はその日家を空けた。
向かった先は姿子の家である。玄関のチャイムを鳴らす辰哉を姿子が出迎える。
数日ぶりに辰哉の顔を見て姿子は驚きの声をあげた。
「あなた・・・酷いお顔の色だわ」
辰哉の上着を預かり部屋の奥へと通した。
姿子は慎ましやかな女性だった。慈しんできた妹を亡くした辰哉を気遣って不用意なお喋りを避ける。
黙って辰哉の好物をテーブルの上に並べ燗をくべる。
辰哉は姿子と過ごすこんな静かな時間を気に入っていた。
少し笑みを浮かべ杯に口を付けようと目を落とすその中に、茅子の姿がゆらゆらと揺れる。
辰哉の心が再び騒ぎ出す。
茅子は言った。今夜が最後だと・・・・。
『あにさま』
今頃は屋敷中を探し回り、自分を呼んでいるであろう茅子の声が聞こえてくるようである。
落ち着きをなくし泳ぐ辰哉の目に姿子が少し怪訝な顔を見せる。
「辰哉さん?」
そっと辰哉の手に触れた。
触れる指先に辰哉は茅子の指を思い出す。辰哉の感覚は全て茅子のそれで占められていた。
辰哉は目の前の姿子が火照る肉を解消する為だけの相手であったことに気が付いた。
立ち上がると上着を手に走り出る。
後ろから姿子が呼ぶがそれすら耳にすら入らない。真っ直ぐに屋敷へと戻ると自室でなく台所へと向かう。
包丁を手にすると今度は茅子の部屋へと向かった。忍び泣きが漏れてくる。
障子を開けると主のいなくなった筈の部屋に茅子の姿はあった。
『あにさま』
戻ってきた兄の姿に茅子の顔が明るく輝いた。
「茅子。今ひとたび問おう」
茅子の前に真っ直ぐに立つ。
「お前が望むのはこの身体か?・・・それとも心か?」
『あにさま、何を今更・・・茅子の欲しい物はただ一つ。茅子に向けられるあにさまの誠の心でございます』
茅子の言葉に辰哉は満足げに微笑んだ。
「ならば、お前にくれてやろう。この命、この心・・・」
辰哉は手にしていた包丁を首にあて、躊躇うことなくその刃を滑らせた。
あの日、ゆらゆらと宙に揺れる茅子の影を写した障子を、飛び散る辰哉の血が染める。
瞬く間に血の海となる畳の上に辰哉は突っ伏す。自分を見つめ続ける茅子の姿を映し笑みを浮かべたまま事切れた。
一迅の風が起こる。それは次第に大きな渦となり部屋の小物を飛ばし障子を薙ぎ倒し、外へと空へと向かって巻きあがる。
その中には辰哉の亡骸をしっかりと胸に抱きしめる茅子の姿があった。コロコロと鈴の鳴るような茅子の笑い声が空の彼方からいつまでも響き渡っていた。
翌日、辰哉の元を訪れた姿子は茅子の部屋に残された夥しい量の血痕を見つけるが、いくら探しても辰哉の姿を見つけることは出来なかった。
~ 終 ~
スポンサーサイト
【短編】情炎 ~姿子~ 壱
2008-12-30
民家の明かりも落ちる深夜、点在する街灯に照らされても道は尚、薄暗い。「辰哉さん、どこ・・・」
辰哉の姿を求めて、彷徨い歩く姿子の姿があった。
愛しい男の姿だけを追い求める目は虚ろ。
姿子は、何も告げずに忽然と姿を消してしまった辰哉を思い切ることが出来なかった。
交わした将来の約束だけが胸に灯る。
暗い夜道をひたすらに姿子は歩く、歩く、歩く、歩く・・・・。
そんな姿子の足が止まった。
目の前に人影が現れた。
夜道を往く姿子の姿に勤め帰りに通りすがった男が心配して声をかけてきたのだ。
「こんな夜更けにお一人では危ないですよ。お宅までお送りいたしましょう」
姿子の顔がにわかに明るくなる。
満面の笑みを浮かべ見知らぬ男に抱きついていった。
「辰哉さん」
男は突飛な姿子の行動に面食らった。
「わたしほうぼう探しましたのよ。どちらへいってらっしゃったの。でもいいわ、こうして戻ってきてくださったんですもの」
「あの・・・・」
何かを言おうとする男の声にも姿子は取り合わない。
「いやよ。いや、もうわたくしを置いてどこにもいらっしゃらないで」
縋り付く姿子のうなじに掛かる後れ毛が、えもいえぬ色香を醸し出し、男を惑わす。
姿子は辰哉の腕に抱かれて眠る幸せな夢の中にいた。
眠りから覚めた姿子は、隣に眠る男に気がついた。
「あぁ、まただわ。辰哉さんじゃない。あの人はどこへいってしまったのかしら・・・・」
物憂げに溜息を漏らし一人言葉を続けた。
「そうだわ、またあの女が・・・」
いいかけて姿子は、はっとしたような顔をする。
「あの女?あの女って誰の事だったかしら」
目を覚ましても姿子の心は非現実な世界を彷徨い続ける。
数日後、近くの橋の袂から男の土左右衛門があがる。人だかりの中、通りがかった姿子はそれを遠い目で見つめていた。
辰哉を失ってからの姿子は眠りに落ちてもその眠りは浅く、夜更けに目が覚める。
あの日、辰哉の後をすぐにでも追わなかった自分を悔いる姿子はそのまま夜の闇の中にさまよい出る。
人気の殆どない道をひたひたと姿子の足音だけが響く。
「おねえさん」
そんな姿子を呼び止める声があった。
今まで目は開いていても、心虚ろだった姿子がその声には現実的な反応を示した。
低く柔らかい懐かしい声。辰哉の声そのものだった。
焦点が定まりはっきりとした像を映す。学生風のまだ若い男性が頬を紅潮させて姿子の背後に身体をくの字に曲げて立っている。身体が曲がっているのは息があがっているせいだ。
夜更けに歩く姿子の姿を橋を挟んだ通り向こうから見つけ、違和を感じ走って追いかけてきたのだ。
しかし、少々酒が入っていたので一気に酒精が 血管を巡りそれ以上言葉が続かずにその場に座り込んでしまっていた。そんな男の姿に姿子は驚いた声を出した。
姿子が人間らしい感情を出したのは久しぶりの事だった。
「どうなさったの、あなた、こんな夜更けに大丈夫?」
「ご・・・ご婦人が・・・こ・・こんな夜更けに一人・・歩・・きは・・・感心・・し・・ま・・せ・・・」
息をつきつき、口にするがそれ以上は声を出すことが出来ない。激しい動悸に足も立たない。
「あぁ大変」
ぐったりした男に姿子は慌てた。
「そうだわ、わたしのお店がすぐそこですの。肩をお貸しするからもう少し頑張って下さいな」
男の片方の腕を肩に回し、姿子は力を込めて男を支えるとよろよろと歩き出した。
肩越しに姿子の良い香りが男の鼻をくすぐった。
小さな小料理屋に辿り着く。小さな店内を通り抜け、奥の間に続く上がり口の板間の上でこれ以上は無理だ、と言う風に手を振りその場で寝転がった。
あえぐ声に心配した姿子は奥から布団を取り出して男の身体にかけて、その場でじっと男の様子を窺った。
やがて苦しそうだった男の息が落ち着くと小さな寝息へと変わる。
その様子に姿子は安堵の息を漏らした。
一刻ほど眠っただろうか、良い香りの中で男は目を覚ました。と、同時に跳ね起きた男の目の前に姿子が姿を表した。
良い香りの正体は姿子の持つ飲み物だった。
酔いは程よく醒めていた。
「お顔の色もいいわ。これ、お飲みになる?」
男は優しく笑う姿子を前に、自分の醜態を恥じて言葉が出ない。
カップには琥珀色した液体が注がれる。
「これは?」
「こぉひぃですわ。一口飲んでみて」
男は勧められるままに口を付けた。
「不思議な味だ」
「これにこうしてお砂糖を入れるの。・・・さぁ、もう一口飲んでみて」
男は言われるままに口に含む。
「甘いでしょ。・・・次はね、こうやってミルクを入れるのよ。さあ・・」
まろやかな味わいが口中に広がった。
「うまい!」
姿子は男の様子を微笑んで見ている。
「こんなハイカラな飲み物は初めて飲みました。これがこぉひぃか・・・僕の田舎にはない」
姿子は着物の袖で口元を押さえてくすくすと笑う。
カップを置くと男は姿勢を正すと勢いよく頭を下げた。
「面目次第もございません。ご婦人が夜更け出歩く姿に、心配して声をかけたものの、かえってこのようなご迷惑をお掛けする事になって・・・」
男は大層、恐縮して縮こまっている。
「あら、迷惑だなんて・・・、ね、頭をあげて下さいな。わたくし、少しも迷惑だなんて思っていませんわ。それどころかいつもと違う事柄に楽しかったくらいですわ。そんな風に気に病まれてしまっては、反対に申し訳なくなりますわ」
姿子に手を述べられて男は顔をあげた。
にっこり笑っている姿子に少し照れ笑いをみせた。
「僕は結城竜真と言います。あの、あなたは・・・」
「姿子ですわ」
「姿子さん。では、改めて礼を述べます。ありがとうございました」
辰哉の声で呼ばれた自分の名前に姿子の心が震える。
「こんなところに小料理店があるなんて気がつかなかったなぁ」
「ほほ、だってひっそりとお商売をしているんですもの」
「ご婦人のお宅に深夜遅くいつまでも留まるのは失礼です。僕はこれで失礼します」
別れの言葉に姿子の顔が少し曇った。辰哉の声をいつまでも聞いていたいと思った。
「・・・あの」
言葉を口ごもる竜真に姿子が次の句を促した。
「なぁに?」
「また・・・お伺いしても宜しいですか?・・・その、ご迷惑でなければ」
「迷惑だなんて、嬉しいわ。こんなおばさんのお店でよければ是非また寄ってくださいね」
若い竜真からみれば三〇歳を越える姿子は十分おばさんと呼ぶ歳だった。
「おばさんだなんて、姿子さんはお若くてとてもお綺麗なご婦人です」
「まぁ」
竜真の言葉に思わず姿子の頬が染まる。
「あの、失礼します」
竜真も言葉と同時に真っ赤になった顔を隠すように駆け出した。
去る竜真の後ろ姿を見送りながら姿子の胸には不思議な感情が芽生えていた。
竜真は足繁く姿子の店に通った。
そして、たわいのない話をしては帰っていく。竜真がやってくるようになってから姿子の夜歩きはぱったりと無くなった。
姿子は竜真の訪れを心待ちするようになっていた。
二人の絆は日を追う毎に強くなっていく。
ある日の竜真はヴァイオリンを手にして現れた。
「あら、竜真さんはヴァイオリンを弾くことが出来るのね」
「僕の専攻は本当はピアノなんですが、ピアノを持ってくるわけには参りませんのでこいつで代用です。姿子さんにお贈りしたい曲があるんです。聴いてください」
「ピアノ・・・竜真さんは音楽学校の生徒さんだったのね。わたくしったら竜真さんのことを何も知らないのね」
姿子の言葉に竜真の笑顔が少しだけ曇った。
手早く調律を済ませるとゆっくりと息を吸い込むと弓を弦に当てた。
弦の上を滑る弓は美しい音色を奏で出す。切なさを秘めたその響きは姿子の心を揺さぶった。
はらはらと姿子の涙がこぼれ落ちる。
竜真はそっとハンカチを差し出した。
「あら、わたくしったら・・・、あんまり素敵な音色だったので感極まってしまったわ」
姿子はハンカチを目に当てた。竜真はそんな姿子をじっと見つめている。
「そんなに見つめられたら、恥ずかしいわ」
竜真の視線を避けるかのように姿子は顔を逸らした。
姿子の前に跪くと手を取った。
「姿子さん、あなたの目が他の誰かを見つめているのは知っています。でも、僕のことも考えては頂けないでしょうか」
「竜真さん?」
突然の竜真の言葉に姿子は竜真の方へ再び顔を向けた。
姿子の目はもう辰哉を見つめてはいなかった。
「こんな歳の離れたおばさんをからかってはいけませんわ・・・」
真剣に受け取ろうとはしない姿子に竜真の声が少し大きくなる。
「姿子さん、僕は本気なんです」
俯いて黙ってしまった姿子に竜真は楽器を手早くしまうと帰り支度を始める。それを姿子は目の端で追った。
「今日はもう帰ります」
【短編】情炎 ~姿子~ 弐
2008-12-31
姿子は竜真が帰った後も座ったまま微動だにせずに考え込んでいた。竜真の告白に本当のところ姿子の胸は高鳴っていた。真っ直ぐな竜真のその胸の中に飛び込んでいきたい衝動がこみ上げてくる。
そんな姿子を押し留めたのは、あの日竜真の声で現実に呼び戻されるまでの長い空白の時間だった。
曖昧な記憶は確かな不安となって目の前に立ちはだかる。
次の日竜真は訪れなかった。
コトリ、木戸の開く音がした。
心を置き忘れた虚ろな姿子が再び夜の闇の中に彷徨い出る。
その姿子が目を醒ましたのは辰哉の屋敷跡だった。今では住む人もなく朽ちた家屋に荒れた庭。
「わたくし、どうしてこんな所に・・・・」
さわさわと風が草木を騒がせる。
姿子の視線が一点を捉えた。
傾きかけた蔵の戸がまるで姿子を呼ぶようにぎしぎしと音を立てて開閉を繰り返している。
心の中で、行ってはいけない、と何かが叫んでいるのに、まるで引き寄せられるかのように姿子の足はそこへと向かう。
ごくりと生唾を飲み込んで中を覗き見た。
「あぁ・・・」
悲鳴にも似た声をあげる。
姿子はどこをどう歩いたのか、気がつけば自分の家に戻ってきていた。
ぼんやりと店のテーブルに着き、当てもなく窓の外を見つめる瞳が映し出すのは、今し方見てきたばかり恐ろしい光景だった。
姿子は目を覆う。しかし映っているのは現実の世界のものでなく脳裏に焼き付く光景。
それを消し去る事は出来なかった。
姿子の途切れていた記憶が徐々に蘇る。
青ざめる顔に手を当てた唇は恐怖で紫色に変わっていく。
「姿子さん」
竜真の声がした。
「姿子さん」
姿子の瞳が目の前に立つ竜真を捉えた。
「どうしたんです。一体・・・何度声をかけても返事がない」
ふと時計を見るといつも竜真が訪れる時間となっていた。
姿子の反応は鈍い。竜真の存在を認めると微笑みかけた顔がこわばりその手を払って後ずさった。
座っていた椅子が大きな音を立てて倒れる。
驚きの眼差しを向ける竜真に姿子は唇を噛みしめて大きく頭を振った。
「わたくしに近寄ってはなりません」
しかし竜真はその言葉が聞こえないように姿子に近づいてくる。姿子は距離を保ちまた一歩下がる。
「お願いだから近づかないで・・・・」
姿子は懇願するように両手を合わせた。姿子の脳裏に過去の記憶が鮮やかに蘇る。
辰哉を失った姿子の心の隙間に一人の男が付け込んだ。
妻帯者であるに関わらず貪欲な男は虚ろな姿子を貪り続ける。ある日、女の存在に気づき逆上した男の細君は姿子の元へと乗り込んでくるなり手にした刃物で男もろとも姿子を滅多刺しにしたのである。
何カ所も、何十カ所も刃の切っ先を打ち込まれ続け、姿子の現世での記憶はそこで途切れた。
辰哉だけを求める魂は、呪縛となって姿子をこの世に止まらせた。姿子の魂はそれとは知らず幾年も罪を重ね続ける。
竜真の声に自分自身に引き戻されるまでの罪の証があの蔵の中にあった。
晒された数多の髑髏には姿子の全ての記憶が刻まれていた。
いつの間にか辰哉ではなく竜真が姿子の心の大半を占める今、姿子は己の罪深さに肩を震わせた。
「わたくしと貴男では住む世界が違います。どうかお忘れになって・・・・」
竜真にはそれが姿子の真意でないことに気付いていた。崩れそうな姿子の細い肩を抱き寄せようとする。
それを激しく拒絶する姿子。
「わたくしはこの世の者ではありません。それに・・・それに、貴男に触れて頂く資格もない恐ろしい女でございます」
姿子の口にする言葉に竜真が頷いた。
「思い出したんですね」
思いも寄らない言葉に姿子はやっと竜真の方へと顔を向けた。
「なに・・・」
「ああ、でもまだ抜けている」
残念そうな顔をして言う。
じっと見つめる竜真の深い眼差しに吸い込まれ姿子は再び記憶の淵に立った。現世との別れ、あの最期の日。
姿子を見捨て逃げ惑う不誠実な男。狂喜しながら自分を刺し続ける女。
姿子の記憶はもう一つの影を映しだした。
姿子を慕い通い続けていた音楽院生。名前も思い出せない、顔も朧だったその人の存在をはっきりと意識したのは姿子の息が絶える寸前だった。
姿子の身体を庇い夥しい血を流す男の姿。決して姿子の上から離れようとはしなかった。
大きく見開かれた姿子の瞳は今、目の前にいる竜真を凝視する。
「姿子さん、例え貴女の心に辰哉さんしか棲んでいなくとも、僕はずっと貴女が好きだった」
誠実な姿、一途な心、姿子は竜真の胸に縋りついていた。
竜真は腕の中にすっぽりと収まった姿子の身体を力強く抱き締めた。
「教えてください。今の貴女の胸の内を・・・」
「何故・・・・貴男の将来を奪ったも同然の女にどうしてそれほど」
「理屈じゃない。ただただ貴女だけが愛おしい」
強く見つめる瞳に逆らうことなど出来なかった。
「お慕いしております。今では辰哉さんよりも誰よりも何よりも」
姿子はやっと胸の内を明かした。
竜真は姿子のその一言に至上の幸福感を噛みしめていた。
しかし、自分の罪を思い出した姿子には竜真の腕に抱かれているのが苦しかった。
「でも、わたくしは・・・・」
竜真は姿子の苦しみを思い顔を歪めた。
「貴女が苦しむことは目に見えていたのに、この世に留まるあなたの業を止めることが出来なかった僕を許してください。僕の声はどんなに叫んでも貴女の心に届かなかった。でも、もう止めにしましょう。これ以上あなたが苦しむ事はない。一緒に行きましょう」
姿子は竜真の胸にそっと手を当てて身体を離した。
「もう、十分ですわ」
「姿子さん?」
「わたくしには償わなければならない罪があります。貴男と同じところへ上がっていく事は出来ません」
竜真は姿子の手を取った。握られた手に力がこもる。
「姿子さん、僕の思いはそんなに簡単なものではありません。貴女が落ちると言うのなら、煉獄までもお供いたしましょう」
「竜真さん」
「何、遠慮する事はありません。僕は貴女の為にだけ存在したい」
強く深く自分だけを思ってくれる竜真に姿子の心の闇がゆっくりと溶けていく。
手を取り身体を重ね二人の姿は螺旋を描き一筋の光となって彼方へと吸い込まれていった。
-終-
【短編】情炎 ~辰哉そして竜真~ 壱
2009-01-12
「茅子!茅子?どこにいる」
辰哉の声が響く。
「なあに、あにさま、恥ずかしい」
勢いよく障子を開けた辰哉の目に、仲良く談笑をしていた茅子、姿子、竜真の姿が飛び込んでくる。
「おや、いらしてたんですか、みっともない声を出して失礼しました」
来客に気づかなかった辰哉は声を落とし、笑顔を取り繕った。
「辰哉さん、お邪魔しています」
礼儀正しく竜真は立ち上がり深々と頭を下げた。
「茅子、ちょっとこっちに来なさい」
手招きをして歳の離れた妹を呼ぶ。
呼ばれた茅子は兄が手にしているものに気がついた。
「あら、あにさま、それ・・・読んでしまわれたのね」
辰哉の方へ向かいかけた足が止まった。
怒りで顔を赤くし、震える手が握りしめているのは茅子が書き溜めた雑文の帳面だった。
「あら、じゃない。何なんだ、これは・・・・」
茅子は叱られる子供のように慌てて竜真と姿子の後ろに隠れる。
辰哉は後の言葉が続かなかった。
「あら、面白くなかったかしら?」
「面白いとか面白くないとかの問題じゃないっ!」
「きゃっ・・・」
辰哉の剣幕に頭を引っ込める。
「言うに事欠いて・・・」
「あにさま、あんまりお怒りになりますと、血圧が上がりましてよ」
「茅子!」
辰哉は大きな溜息を吐いた。茅子はそんな辰哉の様子を再び頭をあげて覗き見た。
「竜真さんは面白いって仰って下さったわ。それに姿子さんも喜んでいらしたわ」
「姿子と竜馬くんにもこんな破廉恥なものを読ませたのか、いや、何よりも二人に対して失礼じゃないかっ!」
辰哉の顔は今度は青くなった。
「まあ、失礼ね、破廉恥だなんて。わたし女流作家を目指してますのよ」
「破廉恥以外にどんな形容があると言うのだ。嫁入り前の娘の書く言葉ではない・・・はっ、まさか」
二人のやりとりを笑いを浮かべながら見ていた竜真の方に視線を移した。
「まさかとは思うが、きみ・・・」
疑いの眼差しに竜真は慌てて否定した。
「いやだな、辰哉さん、そんな目で見ないで下さいよ。僕は知りませんよ。茅子さんは人一倍想像力が豊かでいらっしゃるから」
「うむぅ・・・」
「辰哉さん、宜しいじゃありませんの。他人様にご迷惑をかけた訳ではなし」
姿子にいなされて、辰哉は少々声のトーンを落とした。
「うむ、・・・・まあ、君たちが些かも気にしないと言うのなら、それはそうなのだが」
すっきりしない辰哉に姿子は切り返す。
「それとも辰哉さん、あなたやはり何か心やましい事がありますの?」
「な、何を・・・」
「ほら、狼狽えた」
茅子が口を出す。
「お前は黙っていなさい」
「時折、わたくし茅子さんを見つめる辰哉さんの眼差しに灼ける事がありましてよ」
少し憮然とした調子で言う。
「し・・・姿子・・・」
辰哉は全く言葉を無くしてしまう。そんな様子に姿子は吹き出した。
「くすくす、冗談ですわ」
「ほらほら、姿子さんも茅ちゃんも。真面目な辰哉さんをそんなに苛めちゃ、お気の毒じゃないですか」
竜馬が助けの舟を出す。
「わかったわかった、受け容れがたいがこの雑文に関しては不問に伏すよ」
「何がお気に召さないの?」
辰哉の言葉に茅子は真剣な顔になった。そんな茅子に辰哉は困ったような顔をする。考えを巡らせて思い当たった事柄を口にした。
「姿子と竜真くんが恋仲になるというのは面白くないな」
「ま・・」
辰哉の一言に恥じらいの声を漏らし姿子の頬が紅く染まる。
「お熱いこと」
茅子はぷいと後ろを向いた。
「姿子、わたしにもお茶をいただけないか?」
席に着いた辰哉の言葉より先に姿子はお茶の準備を終えその前に置く。
仲睦まじい二人の様子に茅子はそっと席を外した。竜真はその茅子の後を追った。
辰哉は37、姿子は31。
既に夫婦であっていても不思議はない。しかし、茅子を嫁に出すまではと辰哉は他人を家に入れようとしなかった。
幼なじみとして育った姿子はそんな辰哉の心を汲み、黙って待つ女の立場を甘んじて受け入れていた。
茅子はそんな二人に安堵と、そして苛立ちにも似た複雑な心境を抱く。
雑多な感情を抱いて茅子は裏庭にある蔵の扉を開ける。
「茅ちゃん・・・・」
茅子を追ってきた竜真に声を掛けられた。
「竜真さん・・・何故ついていらっしゃるの」
「あそこで僕一人が二人にあてられていろと言うのかい?」
茅子が溜息を吐いた。
「浮かない顔だね」
「わたしが、あにさまの邪魔をしているのよね」
「そうだね」
否定をしてもらえなかった事に茅子は不機嫌な顔を見せた。そんな茅子に竜真は苦笑する。
「もうそろそろ、潮時じゃないのかい?いい加減に僕の元においでよ」
優しく誘う竜真に茅子の表情も和らぐ。
「貴男は姿子さんがお好きなんだと思ってましたわ」
少しいじわるそうに言う。そんな言葉には竜真は些かも動じない。
「彼女は魅力的な女性だけどね。だけど、辰哉さん一筋だから僕たちには勝ち目はないよ」
「そうね。自分でも不毛な事は理解はしているのよ・・・・・。でも、もう少し待って下さるかしら。気持ちの整理がつくまで・・・・あと、少し・・・」
「あれは・・・・君の願望?」
茅子はじっと竜真の目を見たあと、視線をはずすと小さく呟いた。
「あんな女死んでしまえばいいのに・・・・」
「怖いな」
ふと漏らした言葉を竜真に聞き取られて茅子は口にした言葉の意味を嫌悪した。
「ああ、嘘、嘘よ。わたしったら何てことを口にするのかしら。姿子さんはまるで本当の姉さまのように、いつもわたしにも優しかったのに」
「違うね。それが君の本心なんだ。君はいつも二人を見てその腹の中にどろどろとした醜い塊を育ててきたんだ」
茅子はきっと竜真を睨み付けた。
「あなたは時折とてもいじわるだわ」
「君は僕を一途で真面目な男だと思いこみたいみたいだけれど、これが僕の本質かも知れないよ」
俯く茅子の肩に手をおいて、まるで子供をあやすかのようにその頭を優しく撫で付けながら耳元で囁いた。
その声が酷く冷たく感じ、茅子は思わず竜真から離れると蔵の中へと逃げ込んだ。
小さな頃から入り浸っていた茅子にとっては目を閉じていてもどこに何があるか手に取るようにわかる。一人でずんずん奥へと進んでいく。
竜真は少し間を空けてからゆっくりと歩を進めた。
「こんなところでかくれんぼは、少し僕に分が悪いとは思わないかい?」
声をかけながら茅子の気配を追う。
茅子はよく知る竜真の筈なのに、近づいてくる彼に何故か恐ろしさを感じていた。
【短編】情炎 ~辰哉そして竜真~ 弐
2009-01-27
「辰哉さん?」
姿子とたわいのない談笑をしていた辰哉は気づけば時計の針ばかりに気を取られていた。場を離れたまま戻ってこない茅子が気にかかっているのだ。
何度か話の途中で姿子に名前を呼ばれる。
「茅子は遅いな」
ぽつりと言った言葉に姿子が口元に手を当ててくすくすと笑う。
「竜真さんと一緒なのがお気にかかるんでしょう」
「む・・・」
「ほら、図星。茅子さんも、もう子供じゃないんですのよ」
「むぅ・・・」
言い当てられて言葉を飲むのは辰哉の癖だ。
「・・・・・やっぱり少し様子を見てくるよ」
時を刻む時計の針を見つめると落ち着かない様子で腰をあげた。
「困ったお兄さまだこと」
そんな辰哉を姿子は笑って見送った。
誰もいなくなった部屋の中で一人残された姿子は放置されたままの茅子の帳面に目をやった。
「本当に・・・・灼けるわね」
ペラペラとページを捲りながら、つい溜息を吐いてしまう姿子の顔に翳りが浮かぶ。
辰哉は庭に降り立つと、まるで茅子の行き先が分かっていたかのように真っ直ぐに離れの横に位置する蔵へと向かった。
入り口は開け放たれたままだ。
陽を遮る造りの蔵の中は日中であっても暗い。明かりを持たずに足を踏み入れると戸口から差し込む陽の光だけが頼りになる。
「茅子、いるんだろう?」
戸口で声を掛けた。
奥の方では竜真がやっと茅子を探し当てたところだった。
「やれやれ、辰哉さんのお出ましだ」
辰哉の声に竜真は掴んだばかりの茅子の腕を放した。
「茅ちゃん、いい機会かもしれないよ」
竜真は立ち上がると袴の裾を払った。
声をかけて暫くすると奥の方で人の動く気配がする。それに気づいた辰哉はじっと戸口で待った。
ぼんやりとした人影が戸口へ向かってやってくる。
「茅子?」
しかし、近づいて来た人影の背丈が茅子ではない事にはすぐ気づいた。辰哉の心中は穏やかではない。
「竜真くんか・・・・。ここで何をしていた?茅子は中か?」
逆光ではっきりとは分からないが、その語調から険しい顔を見せているのであろう辰哉に竜真は首をすくめた。
「いやだなぁ、辰哉さんがご心配なさるような事は何もしてやしませんよ。茅ちゃんと少し話を・・・・・ね」
戸口の端に寄り空間を空ける竜真の横をすり抜け辰哉は中へ進み入った。
暗闇に慣れない目で足下に注意を払い手探りで奥へと向かう。
「茅子?どこにいるんだい」
「あにさま・・・・」
声が聞こえる。見えもしないのに当たりを見回す。
足下にうっすらと人の輪郭を捉えた。目を凝らして辰哉はその影を見やった。闇に慣れてきた目に次第にそれははっきりとしてくる。
茅子だ。茅子が座り込んでいる。
手を差し出すが立とうとはしない。辰哉は自分が茅子の目の前に腰を下ろした。
「何かあったのか?」
優しく問いかけてみるが茅子からは何の返答もない。
目が慣れてきたといってもその表情を読み取れるほどには中は明るくない。茅子の状態を量れない苛立ちが辰哉の心を支配する。
「あっ・・」
乱暴に肩を掴まれて茅子の声が漏れた。色香を放つその声に辰哉の頭には血が上った。
「ここで二人で何をしていた?」
辰哉は声を荒げる。
そんな兄の声を初めて聞いた茅子は酷く驚いた。
「あにさま?」
掴まれた腕に力が込められているのが分かる。
「そんなに力を入れると痛いわ」
辰哉の力は緩まない。
その痛みに心ならずも茅子は辰哉の手を払っていた。
払われた手に、竜真の存在を邪推する辰哉の頭にますます血が上る。
とさり、と辰哉の手に押されて茅子が倒れる。
気がつけば茅子の細い首に手を回していた。
「あにさま・・・・」
茅子の声を聞きながら辰哉は苦痛に顔を歪ませた。
「お前は、何故あんな物を書いた?」
「?」
「やっと・・・・やっと心の奥に眠らせたと言うのに、どうしてわざわざわたしの劣情を暴く」
絞り出す声、首に当てられた手、茅子は辰哉が自分と同じ感情を抱いている事を感じ取った。
「そのまま・・・・」
茅子は言いかけてやめた。
後に続く言葉を兄を思い暫く躊躇したあと、それでも尚、思い切って言葉を続けた。
「そのまま締め上げて。あにさまの手にかかるなら、それは茅子の本望」
辰哉は思いも寄らない茅子の言葉に驚いた。緩まる手に茅子の手が掛かる。それは紛れもない茅子の本心。
「駄目!このまま、あにさまへの気持ちを抱いたまま逝かせて下さい」
辰哉は今、自分が何を聞いたのか頭の整理が追いつかず、それでも茅子の望むがままに首を締め上げた。
茅子の身体が苦しさに耐えきれず、その意志に反して激しく藻掻く。
身体に当たるその衝撃に辰哉はやっと我に返った。
慌てて首から手を離すとぐったりとする茅子の頬を打った。
「茅、茅子」
茅子を失うかも知れない恐怖に血の気が失せ手足が凍えるほどに冷たくなっていく。
数秒の間をおいて辰哉の下で茅子が激しく咳き込んだ。
「あぁ、」
目を閉じ心の奥底からの安堵の声を漏らした。息を吹き返した茅子の身体を力一杯抱き締める。
辰哉の背に手を回しながら自分の望みが叶えられなかった事に茅子は涙んだ。
「何故?あにさま、茅子はあのまま死んでしまいたかったのに」
茅子の温もりを感じながら、辰哉は自分の心を思い知った。
つづく
【短編】情炎 ~辰哉そして竜真~ 参
2009-02-28
生きていて欲しい。辰哉は今まさに奪おうとした命を前にそう強く願った。
激しく相反する矛盾。
いつかは誰かのものになる事を考えるだけで紅蓮の炎が胸を焦がし、共に朽ちてしまう事を思うだけで甘美なまでの喜びを感じるのに、例え自分がこの世にいなくても、二度と光溢れる世界で茅子が微笑むことのない現実はやはり同じくらいの苦しみを辰哉に与える。
「わたしは、お前にこの世界で生きていて欲しい」
絞り出す声は掠れる。
それでもはっきりと茅子にそう告げた。
「あにさま・・・・」
「苦しい・・・辛い。誰かのものになる日を思うと、この身を引きちぎられるほどに痛みを感じるのに、お前の輝くばかりの人生をわたしが奪ってしまう事はもっと堪えられない」
「あにさまの中では、茅子の気持ちはどうでもいいのね」
同じ辛さを味わっているのだと言う事を茅子は訴える。
はっとした顔をするが、それでも茅子の願いを聞き入れる事が出来ない。
「すまない」
辰哉は首を降り続ける。
「茅子・・・・わたしを想ってくれるのならば、どうか生き抜いてくれ。こんなものは一時の熱病だ。長く時を過ごすうちに痛みはやがて薄らいでゆく」
返事のない茅子をしっかりと抱き締める辰哉の腕の力が緩むことはない。
茅子は目を閉じてじっと辰哉の存在だけに全神経を集中させた。力を込めた腕。震える声。高鳴る胸の鼓動。熱の籠もった身体。ただ身体を寄せあってるだけなのに、その全てに辰哉の心が込められている事を感じる。
それは強く茅子に伝わってきた。
こんなにも茅子が愛おしいと全てで叫んでいる。
永遠にその腕に包まれていたいと願う。しかし、それは叶わないと知る二人は他の誰でもない自分自身で決着を付けねばならない事を互いに承知した。
「あにさま、もうわかったわ」
茅子は辰哉の手を解きゆっくりと身体を起こした。
思わず引き留めようと伸びそうになる手を引っ込めた。
茅子はそんな辰哉の顔の間近に顔を近づけた。唇が触れるか触れないかの距離で自分の映る瞳をじっと覗き込んだ。
「あにさまを困らせる真似は、もうしないわ」
指一つ動かせずにいる辰哉に精一杯の笑みを見せて茅子は一人出ていった。
茅子が去った後も辰哉は身体を起こすことが出来なかった。余韻に浸りながらも一人残された身体は急に冷え込む。
蔵から出てきた茅子を迎えたのは、抜けるように青い空とまばゆい太陽の日射しだった。
誰からも祝福される筈もないほとばしる恋情を口にした事で後ろ暗さを覚える茅子にその光は突き刺さるように痛い。
翳した手は陽の光を遮り茅子の顔に蔭を落とす。
母屋へ戻ってきた茅子の前に竜真が姿を現した。
「竜真さん・・・」
目を伏せて通り過ぎようとする茅子の前を竜真の手が伸び、進路を塞ぐ。
「手を除けて下さらないかしら」
「さて、お姫様はこれで諦めがついたとでも言うのかな?」
茅子は口を紡ぐ。
竜真は茅子の手を取ると柱の影へと引き寄せた。
「二度と辰哉さんを困らせるような真似はしない?あの言葉は本当かな・・・・」
耳元で囁く竜真の言葉に茅子はきっと睨み付けた。
「失礼だわ。覗き見ていたのね」
今日の竜真は、やはりいつもと全く違っていた。
「だって、君、気になるだろう?君と辰哉さんの関係がどうなるかで僕の立場も変わってくる」
茅子は溜息を吐いた。
「そうね。はっきりさせねばならないわね」
額に掛かる前髪を掻き上げる。
そんな茅子の何気ない仕草は竜真に恍惚とした感覚を与え身震いさせた。
「それで・・・、僕の元へ来る気になった?」
茅子はゆっくりと首を横に振った。
「何故・・・・!?辰哉さんの事はもう諦めるのだろう?」
「諦めるのと忘れるのとは違うわ。わたしにはあにさまを忘れることなんて出来はしないと言うことを思い知ったの。かといってあにさまへの想いを抱いたまま貴方の胸に飛び込むことも出来はしない。ごめんなさい」
茅子のそれは竜真も心のどこかで予感していた答えでもあった。
「あぁ、いっそあのまま辰哉さんが強引に君を奪っていたなら・・・いや、君に僅かも心を洩らしはしなければ結果は違っていただろうに。・・・・全く、憎らしいくらいに冷静で、冷静でいながら隙をみせる。辰哉さんと言う人は・・・・・・」
肩を竜真の手に掴まれたその瞬間、真っ赤な水が噴水のように噴き上がるのを茅子は目のはしに捉えた。
一瞬の事だった。茅子はその赤いものが何であるのか、すぐには気づかなかった。
着物の襟を濡らし、なま暖かいものが茅子を染め上げていく。
竜真の手の中で鋭利な刃が不気味な輝きを見せている。
心に宿る狂気がその瞳にはっきりと表れた。
「いつから・・・・・」
頸動脈を一断され、失われていく大量の血液に茅子の思考は浮遊し、視力を奪い手足を萎えさせた。
「あにさま・・・・」
茅子は最期の瞬間まで辰哉の事を思う。
竜真の腕の中に倒れ込んだ茅子の顔は蒼白だ。
薄暗くなった視界にぼんやりと映る目の前の竜真の影に辰哉を重ね僅かに微笑んでみせた。
茅子の身体は一気に体温を失っていった。
竜真はそんな茅子を腕に抱き寄せて口の端を歪めた。笑みを浮かべようとしたのだ。しかし、強ばった筋肉がそれを許さなかった。
茅子の途切れたままの言葉を繋ぐ。
「いつから?さあ、いつからなんだろうね。君が僕の語る声に目を閉じてうっとりとした聞き入る度だったろうか・・・それとも、辰哉さんという太刀打ちの出来ない大きな存在が僕の前に立つ毎にだろうか、いや、この押さえに押さえたどろどろとした劣等感が噴出したのは、あれを辰哉さんが読んだと知ったその瞬間だ。僕しか知らなかった君の秘めた思い・・・・・。それを知られたあの一瞬に堰は切れたんだ。
・・・・あぁ、あぁ、君には分かるまい。たといそんな風に自分へ向けられたものでなくとも、君の秘密を共有しているというだけで、僕は満足だったんだ」
独白を続ける竜真の声は、もう茅子の耳には届かない。瞼は重く閉じられたまま、指先一つぴくりとは動かない。ただその表情には苦痛の色はなく、まるで眠っているかのようだった。
竜真は愛おしげに茅子の身体を抱き上げ、足を一歩、また一歩と滑らすように前へ出し奥の部屋へと進む。
つづく
【短編】情炎 ~辰哉そして竜真~ 四
2009-03-02
音も立てずに障子が開く。
一人取り残された姿子がぼんやりと肘を付いて庭先を見つめ座っている。
「姿子」
背後から聞き慣れた声に呼ばれて姿子ははっとして姿勢を正しながら振り向いた。
「辰哉さん?そちらから戻ってらしたのね・・・・」
姿子の言葉は途切れた。
そこに立つのは辰哉ではない。
「竜真さん・・・・」
辰哉と間違えた姿子の言葉は竜真の心に苛つきを生じさせた。
それは声のトーンに表れる。
「貴方も聞き違える程に僕と辰哉さんの声は似ていますか?」
「ごめんなさいな、でも声だけを聞いていると本当によく似ているの、それより茅子さん、具合でもお悪いの?」
機嫌を損ねた事に気づいた姿子の注意はすぐに青ざめた顔で竜真の腕に抱き上げられている茅子に向けられた。
かけた声に茅子の反応はない。
顔に触れようと延ばそうとした手が止まった。ようやく異変に気づいた姿子の表情が凍り付いた。
「どうしました?姿子さん」
姿子の様子を観察しながら竜真は笑みを浮かべている。
「竜真さん」
赤く染まる茅子と竜真の姿をはっきりと認識した姿子の声が震える。
状況を把握しようと忙しなく動かされる瞳は竜真の足下へと向けられた。
茅子の身体から吹き出す滴は竜真の手を伝い畳を、赤く、赤く染め上げていた。
何事もないように振る舞う竜真の纏う異質な空気に恐怖した姿子の足がゆっくりと確実に後ろへと下がった。
しかし、その足を先ほどまで座っていたテーブルが遮る。
不意に足を取られた形となって傾いた身体は畳の上に転がった。
竜真は障子を静かに閉めると茅子をゆっくりと座敷へと横たえた。そうする間も竜真の視線は姿子を捉えて離さない。
茅子から離れると今度は姿子の方へと向かって近づいていく。動くことの出来なくなった姿子の真正面で立ち止まった。
姿子からは竜真の足越しに、茅子が見える。
自分を見下ろす視線に姿子は顔を上げることが出来ない。しかし、やがて緊張に堪えかねた姿子がひきつった顔で竜真を見上げる。
表情は影になって、姿子にはよく見えなかった。ただ、頭上高くに振り上げられた刃が煌めくのが見えた。
それの振り下ろされた瞬間が姿子の目に映った最後の光景である。
蔵の中で辰哉はまだ一人座り込んでいた。
なかなか冷えない頭を冷やしてようやく辰哉が立ち上がったのは既に陽がかたぶきかけた頃だった。
まだ明かりの灯されない母屋を訝しげに思いながらも庭先から部屋の中を覗き込んだ。
広く取られた縁側からは残照でまだ中の様子がはっきりと確認出来た。
横たえられた茅子の姿。荒れた室内。部屋の端には竜真が膝を崩して後ろ向きに座っているのも見える。
酷く驚いた辰哉はその竜真に向かって声を掛けた。
「竜真くん、君、そんなところで何をしているんだい?これは一体どういう事だ?」
振り向いた竜真の貌が嫌悪で歪む。
辰哉の目にはその貌と共に人形のように身体を折って倒れ込んでいる姿子の姿が飛び込んできた。同時に辰哉の身体は床に叩きつけられた。振りかざされた刃に気づいた辰哉はのし掛かってくる竜真に力の限り抵抗した。
激しい音を立てながら大の男二人が揉み合い、その際についた数カ所の傷口からは血しぶきが舞い散る。
陽は完全に落ち全ては闇の中に包まれた。
その闇の中で動く影は一つ。静寂の中声が響く。
辰哉の声だ。
「茅子・・・・?」
「姿子・・・・?」
「竜真・・・くん?」
返事を待っては一人一人の名を呼ぶ。
しかし、返る声などない。
繰り返し、繰り返し一人呼び続ける声だけが空しく響いく。
「あぁ・・・・」と小さく絶望の溜息を最後に声は途絶えた。
翌日も太陽は昇り何事もなかったように一日は始まる。
ぱたぱた、と小さく足音が聞こえる。
さらりと開く障子の音に、愛しい者の声が続く。
「あにさま、お寝坊さんね。もうすっかり陽は高くなっていてよ」
既に目を覚ましていた辰哉が身を起こすと、茅子は満面の笑みを浮かべる。
いつも通りの優しい朝を辰哉は迎える。
茅子と姿子と弟のような竜真の揃う何一つ不満のない変わらない日常。
ああ、あれは悪夢だったのだ。と実感のない一日を過ごした後、辰哉は自分を納得させた。
そうすると、それまで硬く強張っていた顔の筋肉が緩んでくる。
至上の笑みを浮かべる自分を前に茅子も姿子も竜真も微笑む。
その一瞬は暖かい光に包まれた心穏やかさを辰哉に与えた。
「おい、やっこさん、笑っているぜ」
ガラス越しに映る人影が囁いた。
「幸せな時間にいるんだろうよ」
「しかし、事の真相は永久に闇の中・・・・か」
「あの惨状のたった一人の生き残りがあれでは知る術はなかろう」
男二人は事件を担当する刑事。見つめる先は・・・・。
辰哉は病院のベッドの上にいた。
崩壊した意識に、その目はもう現実を映さない。
たとえ、正気を保っていても辰哉には自分の知る事実以外の真相を知らない。
真相を知りたがる大衆が知ることが出来るのは、茅子と姿子を竜真が手をかけ、その竜真を辰哉が身を守ろうとして過って死なせてしまった事実だけである。その事実すら個々人の想像力の前では失われてしまう。ただ彼らの好奇心を擽るネタを提供するに止まるのである。
竜真の心の奥で何があったのか、など辰哉にもわかりはしないし、語る事の出来る言葉でなど表せるものではない。
僅かに知る情報のその一片でもって心の闇の全てを理解した気になるのはなんと傲慢な事か。
今では現実を離れ変幻自在な世界に生き続ける辰哉はその寿命を終える瞬間でさえももう胸を焦がす苦痛に苦しめられる事はないのである。
終わり