第1章 兆しの娘 1
2008-11-01
豊かに恵まれた都があった。近隣を震え上がらせるその都を凶王と呼ばれ恐れられた一人の王が治めていた。生まれもって全てを手にする王は、やがて、父母、重臣、果ては親友すらもその手にかけ、王の周りには誰一人諫める者すらいなくなった。
満たされることのない空虚な心を抱えたまま近隣諸国に戦禍を撒き散らす。
飽く事なく気紛れに繰り返される凶行は人々を震え上がらせた。
王を解放する男が一人。
外界から遮断された城の地下深くに一人の男が長きに渡り捕らわれていた。
歳の頃なら24,5。その体躯は鍛えられてはいたが、長く日の光を浴びなかったせいか、色素が薄く些か青白くもある。その面差しは僅か凶王にも似ており、血の繋がりを暗に示唆する。
特徴的なのは印象深い瞳で、深い闇の影を落とす凶王とは相対する希望を失わない光を宿す。
子供の頃に浚われてきた男は、いつから自分がここにいるのか、それすらもう記憶になかった。
王の気紛れに召しだされる時以外は薄暗い地下の部屋に閉じこめられただ一人きりで過ごす。自由は許されていなかった。
孤独の中、時折男の耳に届く手にすることの叶わないざわめく昼の気配は男を憔悴させる。夜の闇だけが彼を癒やし、優しく包みこんだ。
ある夜、長く空いていた隣の部屋に人の気配を感じ目を覚ました。隣に人が入るのは幾年ぶりだろうか。遙か昔、何度となく歳の近い男が隣に捕らわれてきたことがあった。久方ぶりの人の気配に男はそんな事を思い出す。
あの男たちはどうしたろうか・・・・・。ああ、そうだ。王の機嫌を損ねてすぐに殺されてしまったのだ。
長く生きながらえているのは、自分ただ一人であった。
再び失われるのであろう命に男の胸は苦しくなった。
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第1章 兆しの娘 2
2008-11-02
厚い壁に阻まれた二つの部屋を繋ぐのは男の背より少し高い位置にある鉄格子のはまる小さな窓。時折、聞こえてくるすすり泣く声にそれが若い娘である事を知る。
自分の身一つ自由に出来ない男には啜り泣く娘に、慰めの言葉すら浮かばない。
目を閉じじっとその声を聞くだけの、己の無力さに男の顔は苦痛に歪む。
やがて、疲れたのか、はたまた涙が涸れたのか娘の声が途切れた。
男が思わずそっと小さな窓を覗き込むと薄暗い部屋の片隅で微かに輝く娘の髪が動くのが目に入った。
無事を確かめると男は寝台に腰を下ろし壁を静かに指で叩き始めた。最初はゆっくりと、小さく・・・。
リズムをとるその指は振動を伴い二つの部屋の相乗効果で優しい響きとなって娘の耳にも届く。
男の奏でるひどく懐かしさを覚える調べに、幾分落ち着きを取り戻すと娘は目を閉じ聞き入った。
やがて疲れ果てていた身体は優しい響きの中、意識は漂いゆっくりと眠りについた。
深い眠りの中、幼い頃に行方知れずとなった懐かしい幼なじみを夢で見る。それは魂で繋がった一対の相手。
昔に失った幸せな夢に眠る娘の顔に笑みが浮かぶ。
やがて夢は終わる。深い眠りから目覚めた娘は、暫くの間自分がおかれた現実を把握する事が出来なかった。
目覚めても目の前は薄闇、今が日中なのか夜なのかすらわからない。
目覚めた娘を迎えたのはそんな風に時間の感覚すらなくなる静寂の中だった。
しかし、次第に目が慣れてくるのと同時に自分の身に起きた出来事もはっきりと思い出されてくる。
娘は旅に出たばかりだった。
美しかった自慢の長い髪も切り、男の姿をし腰に剣を携えた。
娘の旅の目的は幼い頃に生き別れた幼なじみを探し出す事である。そこまでしてでも探し出さなければならない大切な人間だった。
しかし、それ以上に娘自身に凶王の手が迫っていたのである。娘には秘密があった。村長である父親の手配の元、何も知らされないまま娘は堅い決意を抱いて、貧しくとも自然豊かで平和だった村、優しい両親、幼い妹、弟と別れて、追われるように村を後にした。
その直後に、娘の村は凶王の襲撃を受けたのである。
娘にしてみれば、大きな戦の気配もなく村が襲撃される理由など何もなかった。襲撃の目的が自分であるなど思い及ぶ訳もなく取り急いで駆けつけた娘は目の前に広がる村の惨状に放心した。そこを凶王の軍に捕らえられたのだ。
蘇った記憶が近しい人の死を再び実感させ、既に涸れたかと思われた涙が再び頬を伝う。
その娘に一番新しい記憶が上書きされた。
夕べのリズムの主は・・・・。
部屋を見渡す。小さな窓が目に入った。
敵か味方かわからない相手に声をかけるのは躊躇われる。しかし思い切って娘は声を出した。
最初のそれは音として発される事はなかった。高鳴る鼓動に深く呼吸をする。吸って、吐いて・・・・気持ちを落ち着かせた。
第1章 兆しの娘 3
2008-11-04
「誰か・・・いるんだろ?一体、何者だ?」じっと瞑想していた男は問いかけてくる声に、娘が思ったよりは元気な事を知った。
しかし、どう応えるのが相応しいのか返答に躊躇した。
そもそも自分は何者なのだろうか?
返事がない事に少し娘は緊張した。
「・・・・・・・・・・・君と同じようにここに捕らわれている者だ」
やっと声が返ってきた。落ち着きのある柔らかい声。娘は安堵した。
「ここは・・・どこだ?」
その質問にまた男は考えた。
凶王の居城と言えば、怖がらせるのだろうか。
「応えにくい質問だったか?・・・・・いい、わたしが言う。凶王の居城なのだろう?」
「知っていたのか」
「そんな気はした。わたしを捕らえたのは凶王の軍兵だったからな。気を使う必要はないさ。あんた優しいんだな」
「凶王の名が恐ろしくはないのか?」
「そう問われれば恐ろしいって答えるよ。でも、こうなったからには仕方がない。何も知らずにいるよりは知った方が活路を見いだせる」
笑って応える娘に、男は考えすぎる自分に失笑した。
「ところで、君は・・・少年なのか?」
男はふと浮かんだ疑問を口にした。声のトーンはまさしく女性のそれだ。しかし、そのはっきりとした物言いは少年のようにも思える。
その問いに娘は大笑いした。
「口が悪いせいか、よく言われる。・・・・・わたしは、サクの村長、ユージンが娘・・・・」
名を名乗ろうとしたところで、父の言葉を思い出した。
『お前の名は力の源。例え何人であろうとその名を知られる事があってはならない』
今となっては、守るべき遺言だ。
「すまない。故あって名乗れない。だからわたしもお前の名は聞かない」
男は娘の論法に声を殺して笑った。そしてその言葉から娘の誠実さを感じ好ましいと思った。
「・・・・律儀だな。偽名でも一向に構わないのに・・・・」
「いい、あんたも名乗るな。絶対、名乗るんじゃないぞ」
思わずむきになった娘の言葉にそのまま会話が途切れた。
静寂は娘に生々しい記憶を呼び起こさせる。いくら強がってみせても涙がこぼれてきそうになる。
「ねぇ・・・迷惑じゃなかったら、もう少し話し相手になってはくれないか?黙っていると絶望の淵に落ちていくようだ」
「無理しなくてもいいと思うが・・・・・」
「無理などしてない。。何もせずに自分に起きた事に嘆き悲しんでいるのは楽だ。わたしだって何もしなくて事態が好転するのならそうする。そうでないのなら、今いる場から、この先に進めるように一分一秒でも早く立ち上がる方を選ぶ。だって、わたしにはやらなければならない事があるんだもの」
「やらなければならない事?」
思い出の中の大切な相手の存在が娘の顔に優しい笑みを浮かべさせる。
「人を捜しているんだ。誰よりも大切な相手・・・・。そうだ、あんた、知らないか?わたしも今の姿は知らないけれど・・・・」
男は慌てて唐突な娘の質問を遮った。
「すまない。・・・・・すまないが・・・・」
全てを聞く前の男の言葉に娘は不思議そうな顔をした。
「わたしはもう記憶に残らないほど、長くここにいる」
男の指す言葉が何を意味するのか、娘は自分の不用意な言葉に気が付いて、思わず顔を赤くした。
「外の世界の事は何一つわからないんだ。だから君の人捜しに役立つ情報は持ってない。役に立てなくて心苦しいが・・・・・」
娘は厚い壁に手を当てた。
「・・・・ごめんなさい。ここが壁に阻まれていて助かった。あんたに合わす顔がないよ」
娘はとてもまっすぐで素直だった。
「君は事情を知らないんだ。気にすることはない」
男は軽く笑った。娘と話をしていると気持ちが軽くなってくる。
男は燭台に火を灯した。小窓から明かりが洩れてくる。
「明かりがあるのか?」
娘は驚いて大きな声をあげた。
「ああ、君はまだ知らないんだね。闇に目が慣れてきたら周りを見回してごらん。ここは・・・・牢獄ではない。人が生活するのに最低限のものは揃えられている。きみの部屋も同じだと思うよ」
娘は目を凝らして部屋の中を見回した。成る程、男の言うとおりに必要な備品は揃っているようだった。
「ああ、わたしはやっぱり余裕がなかったんだな。あんたに言われて初めて気づくなんて、こんな事じゃこれから先が思いやられる」
そう言って大きく伸びをした。
男の存在は娘の張りつめた神経を解きほぐしてゆく。
つづく
第1章 兆しの娘 4
2008-11-08
娘も火を灯した。ゆらゆらとした炎に照らし出され、はっきりと浮かび上がる部屋の中は思ったよりは広い。ふいに目の端に入ってきた人影に一瞬ぎくりとした。
置かれていた鏡に映し出された自分の姿だった。
「ああ、自分が映っているのか・・・」
鏡の中の自分の姿を見つめる。
改めて見てみると全くの少年の姿をした自分がそこに立つ。長かった髪と娘らしい衣装を思い出して少し寂しそうに微笑んだ。
「そうだ、あんたはどんな姿をしているんだ?」
「姿?」
「そうさ、髪の色とか目の色とか・・・身の丈とか・・・・。こうやって話をしているだけでは、想像できない。わたしの自慢は髪だったんだ。陽の光に輝くストロベリー・ブロンド・・・。尤もそれもこの旅で切っちゃったけどさ。自分で言うのもなんだけど、そりゃ見事なもんだったんだ。黙って立ってるわたしを見たら、あんたもきっと”少年なのか?”なんて聞きゃしないだろうな。」
男は自分の失言に気が付いた。
「悪かった。女性にしては、あまりにさっぱりとした潔い受け応えについ・・・・、その部屋にも今までにも幾人かの人間が入った事があったが、いずれも己の身に起きたことに嘆き悲しみ、絶望するばかりだった。君のようにそれを1昼夜で笑いとばせる人間は珍しくてね」
男は娘の誤解を解こうと言葉を並べた。
「あはは、冗談だよ。そんなに気にしていない。やっぱりあんたいい人だね。でも、ふうん・・・・、何人もいたんだ。・・・・って事はわたしも、いずれここから出してもらえるんだろうか・・・・でも、あんたは記憶に残らないくらいここにいるんだったね」
娘の声のトーンが沈み込んだ。
自分が長くここにいる事は否定できない。それに今まで捕らわれていた者たちの末路を訊ねられたくはない。男は慌てて話題を変えようとした。
「そうだ、わたしの姿だったな。わたしには殆ど色素がないんだ。髪は・・・・銀。長さは長いな。君の自慢の髪ではないが、ここでは刃物の使用は許されていないから切ることも出来ないんでね。上の方で結いあげている。それに、瞳の色も銀に近いな・・・・・・。不思議な色だろう?」
「本当だ・・・」
頭上から声がした。
上を振り返った男は小窓の方を見上げて、言葉を無くした。蝋燭の光の中でも鮮やかに煌めく赤い髪が目に飛び込んでくる。
華奢な指を鉄格子に絡ませて、こちらを覗き込む娘の顔がそこにあった。
「男性の部屋を覗くなんてはしたない事だったね。でも、どんな説明を聞くより一見した方が早いじゃないか」
驚いた顔を向ける男に娘はいたずらを見つかった子供のように舌を出してみせた。悪びれない娘の無邪気な笑顔に一瞬にして惹き付けられる。男は額に手を当ててうつむいた。
娘の体力はいつまでも鉄格子の向こうを覗き込んでいる事が出来なかった。必死でしがみついていた手を放すと地面へと足を付けた。
再び顔を上げた娘は男に見せた顔とは裏腹に浮かない顔をしている。
「銀、なんて綺麗な銀の色・・・・でも、ブラウンじゃなかった・・・・。でも、そうだな。そんな筈ないんだ。もしカイトーなら、わたしの事を忘れている訳ないんだ。」
小さく呟いた。娘は男が自分の探している相手だったらいい、と密かに期待したのだ。
「全く君にはかなわないね」
男は堪えきれずに大笑いをした。目には今まさに飛び込んできたばかりの見事な色がちらついている。
夕べちらりと見えた輝きは、あれほどに見事な色であったのか。日の元で見るとさぞや眩かろう、と想像する。
「覗いたりしてごめん。・・・・もしかしたら、あんたがわたしの探している人間なんじゃないか・・・なんて思ってしまったんだ。」
男は笑うのを止めた。
「大事な相手・・・・なんだろう?光栄だけどその相手がわたしではきみに申し訳ない。大丈夫、見つかるさ。そうだな。ここを出た暁にはわたしも一緒に探してやろう。だから気を落とすな」
「ありがとう、本当にあんたやっぱりいい人だよね」
あまりに娘に”いい人”を連続されて男は少し気恥ずかしくなる。しかし他意のない娘の言葉は妙に気持ちがいい。
「それに・・・・」
「それに?」
「その姿は神々しいくらいに綺麗で・・・」
娘は言葉を切った。そして照れながら言い放った。
「いい男だった」
相手を目の前にしていないというだけで、思ったままにすらすらと口をついて出る。
「でも、誰かに似ているような・・・・・」
「王に」
すかさず男は言った。
「凶王に似ているのさ、この顔は・・・」
「ああ、そうだったんだ」
謎が説けて娘はすっきりした。
「何故、とかどうして、とか君は追求しないのかい?」
今まで、その姿をみた者の中には凶王への怒りをそのままぶつけてくる者もいた。男にとってはそれが普通の事だった。
「それこそ、何故?どうして?と聞きたい」
「それは・・・・・」
「そういう事を今までに言われた訳なんだね。・・・・でも、あんたはいくら似てたって凶王じゃない」
娘のその言葉に男は見ている者の胸が苦しくなるほどに切ない、それでいて何とも言えぬ嬉しそうな顔をした。
第1章 兆しの娘 5
2008-11-09
男は壁に手を添え、さも愛おしそうに頬を付けて目を閉じた。
「外を知る君にはここに閉じこめられている事は辛いだろう?・・・・君をここから出してあげたい。今は無力だがいつか必ず・・・・・」
娘の顔に笑みが浮かんだ。
「わたしは、必ずここから出るよ。・・・・その時はあんたも一緒だ」
「そうだな、人捜しを手伝うと約束した」
男は叶う筈のない約束を再び口にした。
それでも夢に見る。明るい日の射す大地の上でたくさんの人と出会い、別れを繰り返しながら娘と二人旅をする姿。
それを想像するだけで柔らかい笑みがこぼれ、これ以上はないほどに幸せな気分になる。
食事を運ぶ者が訪れる他は誰一人として来なかった。見張りの者すらいない。
静かにゆっくりと流れる時間の中で二人は、とりとめのない話をして過ごした。
ある日突然に男の部屋から聞こえてきた乱暴な物音と怒鳴り声に夢うつつにまどろんでいた娘は現実に引き戻された。
声は男のものではない。数人の声が入り交じって聞こえてくる。時たま聞くに耐えない言葉が混じる。
娘は何が起きているのか分からず、恐ろしさで身を固くして小さくなっている他なかった。やがて、扉の前を幾人かの足音が通り過ぎ静かになった。
男の部屋からは一切の気配が消えた。
この上なく言葉にし難い不安に襲われた娘は、再び鉄格子に手をかけると力を込めて自分の身体を引き上げた。男の部屋を覗き込むと目を凝らして隅々まで見回す。
・・・男の姿はない。
いくら首を振って見回したところでいないものはいない。指から力が抜けていく。諦めて地に足を着けた。
ある筈の地を感じず、崩れて落ちていく感覚に陥ってそのまま座り込んだ。
深い孤独の闇の中、いくら振り払おうとも襲ってくる不安。
こんな中で男は何年も一人で過ごしてきたのかと、今更ながら男のその精神力の強さに驚嘆する。
男の無事をひたすらに願い、張り裂けんばかりの胸の痛みに耐える。
たった一人で過ごす時間は、とてつもなく長かった。
娘は自分がどれほど男の存在に救われていたのかを改めて知った。
その時、男は数人の衛兵の手により凶王の前に引き立てられていた。
目の前には五十代半ば近くの豊かな顎髭を蓄えた男が数段の高みに位置する玉座に座している。
腕を掴む衛兵たちの身体が緊張に強張っていくのを感じていた。
王は肘を付いたまま目の前に立つ男へと視線を投げかると衛兵へ出て行けとの合図かのように顎を上に動かした。
途端に男を連れてきた衛兵たちは乱暴に王の足下へと男を突き飛ばすと、潮が引くような素早さでその場から姿を消す。王の側近くには誰も残らない。
だが、それはいつもの事だった。
男は王と二人きりになった。
しかし、男は動揺する気配もなく酷く落ち着き払っていた。
男の身体を戒めていた衛兵の手はもう無く、全ての自由が利く。
「いつまで転がっている?早く立つが良かろう」
王は玉座より立ち上がった。ゆっくりと段を下りてゆく。
その動きを男は視線だけで追う。
「さて、今日は何をしようか。何がよい?」
男に声を掛ける王は、噂に聞く凶王とはまるで別人のようである。しかし、それが間違いなく凶王本人であることを男は既に知っている。今更、驚きはしない。
「剣技か?それとも兵法が良いか?経済か・・」
王は歩きながら壁に飾られている名高い職人の打った剣を手にすると、男に向かって放り投げた。
男は隙のない動作で空に舞った剣を受け止めた。
剣を手にする男に見向きもせず、不用意に背を向けたまま王は今度は書庫に向かって歩き続ける。
王の背を見つめる男は無言のまま剣を鞘からすらりと抜いた。男からは何ら殺意は発せられていない。
しかし突然に剣先を王に向けると勢いよく走り込んだ。
”するり”と何の抵抗もなく刃が王の身体を貫く。・・・が、次の瞬間、男は見えない力に弾かれるように吹き飛んだ。男の身体は部屋の中央部に激しく叩き付けられる。
辺り一面に凶々しいまでの空気が立ちこめる。それを纏い振り向いた王の顔は先ほどまでと違い豹変していた。
振動する空気は鋭い鎌いたちとなって男の身体を切り刻む。飛び散る血は男の身体を赤く染め上げていく。
王は背から胸へと刺さる剣をゆっくりと引き抜くと床へと投げ捨てた。確かに男が刺し貫いた筈のその胸からは一滴の血も流れ出ない。
『愚かなことを・・・・その手が持つ凶器では、わたしを傷つけることなど出来ないことは既に知っていよう?』
王の発した声は不気味に周りの空気を振動させる。
男は惑う事無く王を直視した。言葉のない男に尚も王は続けた。
『もう諦めたものと思っていたが、未だにわたしに刃を向けるか。・・・・あの娘か?・・・・あの娘の存在が、その心に執着を芽生えさせたか?』
娘の存在を指摘されて男は表情に少し戸惑いを見せたが、王から目を逸らすことはなかった。
『よい、それでよい、その瞳はますます強く輝き、お前はわたしの望む完全体となっていく。待ちわびた時が直に満ちる・・・』
声が幾重にも重なり響き渡る。
「凶つ神・・・・」
ふと男が漏らした言葉が、凶々しかった王の表情を再び先ほどまでの顔に引き戻した。
淀んでいた空気も元に戻る。
深く暗いガラス玉のような瞳は男をじっと見つめている。
「あの娘をここへ捕らえたのは王、あなたか?それともあの凶王か?」
「それを知ってどうする?お前はどうあっても、己の運命には逆らえない」
王の言葉に男は顔を伏せ、自分の手をきつくきつくと握りしめた。そして一旦は伏せた顔を再びあげると言葉を続けた。
「王、わたしは・・・・わたしの役割は既に理解している。それに抗う気持ちもない」
その言葉の真の意味を知っている王は黙って聞いている。
「だが、あの娘は関係が無いだろう?自由にしてやって欲しい。」
「それは出来ない。お前はまだ知らぬだけだ」
男の願いは拒否された。即答だった。
「何をだ」
含みを持つ王の言葉に、男は傷ついた身体で這い寄ると衣の裾を掴んだ。しかし王は男の問いには答えようとせず首を横に振るばかりだ。
王から納得いく答えを与えてはもらえない。
立ち上がろうとした男の意識が出血のあまりに遠のいていく。
やがて、裾を握りしめたまま動かなくなった男を黙って見下ろす王の感情の宿らない、ガラス玉のようなその瞳はぞっとするほどに冷ややかだ。
しかし、その瞳が時折迷うように揺れ動く。
意識を失った男の側に跪き王はその顔を覗き込みそっと触れた。
「カイト・・・・」
王の口にした、それが男の名だった。
男が再び目覚めた時、もうその場に王の姿はなかった。
男の傷ついた身体には丁寧に手当が施されている。
思案する男の元に再び衛兵たちは姿を現し、男を立ち上がらせるときた時と同じように乱暴に連れ出していった。
つづく
第2章 贄 1
2008-11-22
気が遠くなるほどの時間に娘は全ての思考を止める。力無く横たわり酷く虚ろに小さな窓を見つめる。そんな娘の耳に再び荒々しい物音が聞こえてきた。激しく閉められる扉。幾重にもかけられる鍵の音。
遠ざかる足音に我に返った娘は急いで壁に耳を付けた。精一杯、神経を研ぎ澄ませて男の気配を感じ取ろうとする。しかし、男の部屋からは物音一つしない。
娘は再び小窓を見上げると鉄格子に手をかけた。
そっと覗き込む。
今度は部屋を隅々まで見回す必要がなかった。すぐに床の上にある動かぬ固まりに気が付いた。
息を呑んだ。
それが男である事はすぐに理解した。
身動き一つしないその様子に心臓が凍り付く。
「ねぇ、・・・・・・起きて・・・・こっちを向いて・・・・」
今にも泣きだしそうな声を出す。
反応して男の手がぴくりと動いた。強打した全身がきりきりと痛む。
娘の存在を思い出した男は咄嗟に手にした寝具を身に纏うと、自分の姿が覗き込む娘の目に触れぬように全身を隠すと寝台の上に横になった。
「どうして、顔を見せてもくれないんだ」
娘の言葉に心が揺れる。
「すまない、疲れているんだ」
そう言ってやはりこちらを見上げようとはしない男の様子に娘も諦めて元いた場所へと足を着けた。
自分と男とを遮る壁。その壁にぴったりと身体を寄せて座る。
同じように沈黙の中で過ごしていても、その向こう側に男がいるというだけで安心することが出来た。
男はゆっくりと身体を起こすと、娘の部屋へと繋がる小窓を見上げた。
そっとなぞるように壁に手を当て、あちら側にいる娘を想いこつんと額を付けた。
それから、再び寝台に横たわると深い眠りに落ちた。傷ついた身体を癒やすには眠るしかない。男は長く眠った。
「おはよう」
本当は朝なのか、昼なのか、夜なのか、詳しいその時間の区別はついていない。
しかし、男が目覚めた気配を感じ取りいち早く娘は声をかけた。
男の様子が気に掛かってゆっくり休むことが出来なかった。一呼吸おいて男の返事が返って来るのを待つ。それほど長い時は掛からない。
「おはよう。君はよく眠れたかい?」
いつもと変わらぬ優しい声が返ってくる。その声にやっと娘の顔に笑みが浮かんだ。
「あれは・・・・何だったんだ。どこへ、連れて行かれていたんだ」
男の動きが止まるのを感じる。空気が張りつめている。目の前にいないからこそ、僅かな気配に敏感になる。
薄々は娘にも分かっていた。男がどこへ連れ出されていたのか・・・・。それでも訳の分からない不安な時間を過ごすのがイヤで、はっきりとさせたくて口にする。
「凶王の元へ・・・」
想像通りの答えが返ってくる。
「あんたがいないここは、酷く寒くて心細い・・・・」
「わたしはこれからも、度々凶王に呼び出されるだろう」
その言葉に男の身を案じる娘の顔が強ばった。
「でも、心配することはない。大丈夫さ。わたしは必ずここに戻ってくる。君を一人にしないと約束する」
「でも、凶王は恐ろしい人間なんだろう?酷い事をされてはいない?」
「・・・・・そうでもない。王は思うよりは親切だ」
村を滅ぼした張本人、それに連れ出される時の様子から男が良い待遇を受けているとは到底思えない。
それは自分を安心させる為の嘘だとすぐに分かる。娘は何も言えなくなった。
だが、男は決して嘘を吐いた訳ではなかった。
平穏な時間は長くは続かなかった。男の言葉通りに、それからも度々男は連れ出されいなくなる。
いつも乱暴なまでの物音と怒鳴り声が響き、その後の気の遠くなるような静寂の時間。その間娘は息を潜めてひっそりと男の戻りを待った。
男はすぐに戻ってくる事もあれば、数日しないと戻ってこない事もあった。
最初は気丈に気持ちを奮い立たせていた娘にも、一月、二月と経ても何ら変化をもたらさない時間は段々と心に暗い影を落とし始めた。
男が連れて行かれる度に、もしかしたらこのまま一人になって永遠にここから出られないのかも知れないという絶望感が激しく襲ってくるようになる。そんな時は、小さな窓を見つめる。
そこだけが二人を繋ぐ唯一の場所だった。
男が戻ってくる都度聞こえる乱暴な見張りの声に娘は身を固くする。
戻ってきた男はいつも娘を気遣い声を掛ける。聞こえてくる最初の頃と少しも変わらぬ優しい声がいつも娘を慰める。
推し量ることの出来ないくらいの長い時を過ごしてきた筈の男の事を思うと、心弱くなる自分が恥ずかしくなった。
つづく
第2章 贄 2
2008-11-23
ある日、いつもなら戻ってくるなり声をかけてくれる男の声がしない。初めて男が連れて行かれた日のことを思い出す。
物音一つしない静けさにただならぬものを感じる。
声をかけても返事も戻ってこない。いてもたってもいられなくなった娘は、また鉄格子に手をかけた。
男の姿が小窓から洩れる明かりに照らし出された。娘は瞬きを忘れる程の驚きに目を大きく見開いた。声を出すこともできない。
衣服の上に滲み出て白い身体のあちこちが赤く染まっているのが分かる。倒れたままの白い顔からは血の気が失せてますます青く見えた。
連れて行かれた男はいつも王の元で様々な事を学ばされる。
しかし、それだけではなく頻繁に王は無抵抗な男をなぶるように痛めつけるのだ。それはまるで男の中にある何かを試すかのようでもあった。
今回も男は凶王に酷く痛めつけられた。
それでも、娘の気配を感じ取り、ゆっくりと頭をあげた。
娘の顔を見つめると男は立ち上がって、少しふらつく足取りで壁を伝い娘が顔を覗かせる窓へと向かう。
「酷い・・・・それは・・・・その傷は凶王に?」
娘は震える声で問いかけた。
「こんな事は大した事ではない」
男は何事もなかったように笑顔を作って言った。途端に娘の目から大粒の涙が溢れ出した。
「では、今までもいつも・・・・」
言葉にならなかった。
「何故泣く?君が心を痛める事は何もないのに・・・」
「わからない。あんたを見ていると胸がどうしようもなく痛い」
娘の側まで歩み寄ると男はそっと手を伸ばし、まるで壊れ物に触れるかのように、そっと指で娘の涙を拭った。
「出血の割に深い傷はない。何も心配する事はない」
目を閉じると、娘は静かに男の大きな暖かな手の平にに頬を寄せる。
厚い壁がそれ以上二人が近づくことを許さなかった。
しっかりとした足場もなく手を掛けているだけの娘の力は尽きようとしていた。
「ごめん。これ以上は無理だ」
目を開けた娘の目は降りる瞬間に男の指に光る物を捉えた。見覚えのある指輪が目に飛び込んできた。
娘は自分の目を疑った。
何度も頭を振った。しかし、見間違う筈などなかった。無意識に両手を叩きつけて、悲痛な声で壁に遮られた向こう側に呼びかけた。
「それ・・・その指輪を何故あんたが持ってるんだ?それはカイトの物だ」
【指輪】・・・・【カイト】
男の脳裏でその二つのキーワードがこだまする。
何故・・・・?
考えようとすると激しい頭痛が襲ってくる。旧い記憶は霞がかって、はっきりとしない。
「答えて・・・・、まさかカイトなの?」
自分が?娘の探す人物?
必死に問いかける声を遠くに聞きながら、及ぶ限り思い出そうとする。
繰り返し叫ぶように問うのに、返らない答えは娘の声を小さくする。
やっと男の記憶は幼い自分と王との一つの場面に辿り着いた。
自分に何かを手渡す王の姿。
『カイト・・・・お前の名はカイトだ。これを大事にもっているがいい』
「指輪は・・・そうだ、王に授けられた・・・・。名前も・・・王から与えられた・・・・・」
思い出した記憶が口をついて出た。その声は娘には届いていない。
手繰り寄せた記憶からはいくら想像しても、とても自分が娘の探している人間と同じとは思えなかった。
あれは・・・・王自身だったのか、それとも凶つ神だったのか。いくら考えてもそれ以上の記憶は蘇らない。
頭が割れるほどの痛みに男の額から汗が滴った。
微かに男の声を耳にしたような気がした娘は再び声をあげた。
「何?何を聞いても恨まない。だから・・・」
男は抱えていた頭を離すと立ち上がり小窓から手を差し出した。
「手をこっちに延ばして・・・」
言われるままに延ばした手の平に指輪が落とされる。
娘は急いで明かりの元で指輪をかざしてじっくりと見た。
間違いなく、カイトが鎖を通して首からかけていたものだった。
娘の表情は途端に光を射したように明るくなり、それを両手で大事に包み込むように胸の前で持ち頭を垂れた。
「それは、君が持っているのがいい」
「カイトは・・・どうなった?知っているなら教えて・・・・」
「すまない・・・・」
暗く沈む声だ。
「以前にその部屋にいた男に預けられたものだ。・・・・・彼が、どこに行ったのかはわたしにはわからないんだ。すまない」
男は嘘を吐いた。不確かな記憶の中の真実を告げる事が出来なかった。
「これは、とても大切なものなんだ」
上手に娘の質問をかわす言葉を見つけられずに、男は次の言葉を恐れた。
「それを託すからには、あんたにとっても世話になったんだな。・・・・・ああ、ごめん、わたしったら自分の事で一杯になって・・・傷に障るよね」
娘はそれ以上は聞かなかった。男はほっとした。
男の身体を気遣い壁から離れて寝台の上に座り、手の中に戻った想い出の品を懐かしく見つめる。
指に填めてみても大きすぎてすり抜けてしまう。親指にしか合わない。
成長した姿を想像する。指輪がぴったりと合う大きな手。
しかし、娘が思い浮かべたその手は先ほど触れた男の暖かな手だった。
ここに連れてこられてから自分自身が危害を加えらた事がないせいもあって、娘の頭には悪い考えは何一つ浮かばない。手がかりを得て、ただ純粋に喜んでいた。
つづく
第2章 贄 3
2008-11-25
今まで気にした事がなかった。抜け落ちている自分の記憶に沸き上がる不安が男をさいなむ。自分の存在が不確かなものだと感じたのは初めてだった。
うなされる男の声に娘は目を覚ました。
「大丈夫?傷が痛むの?」
壁に駆け寄り思わず声をかける。
心配そうな声は男をうつつに引き戻す。身体がぐっしょりと汗で濡れている。
「大丈夫、大丈夫だ。起こして悪かった・・・」
大丈夫、と自分自身にも言い聞かせるように二度口にする。
娘は遮る壁に手のひらを当て身体を寄せた。
「これが無かったら・・・その手を取ってあんたが悪い夢にうなされないように一晩中側に付いていてあげる事が出来るのに・・・」
男はそんな心遣いを受けたことがない。少し困ったような顔をした後、ゆっくりと笑みを浮かべる。
「わたしこそ、君がいつも幸せな夢を見られるように一晩中でも、その頭を撫でていてあげよう」
返される言葉に娘が笑った。
その声を聞いていると心が安らぐ。
「ゆっくりと休むといい」
男も眠った。今度はうなされることのない静かな眠りが男に訪れた。
次に凶王に呼ばれる日を男は待った。
散らばる記憶を一つに繋ぎ合わせるには、凶王に会うより他に手がない。
今まで、こんなに強く何かを願った事はなかった。未来の決まっている身は無意識のうちに過去を探ることを避けていたふしもある。
いつも気紛れに呼ぶ凶王も、傷を負った後はそれが癒えるまで決して呼ぶことはない。男は今までの経験から知っている。ただ待つしかなかった。
そんな自分を隠して、男は時折歌うように話しかけてくる娘に優しい嘘を吐いた。
娘が嬉しそうに笑う姿を想像するだけで不思議なほどに言葉が出てくる。
それは許されない事だと心を痛めつつ、それでもせめてこの中にいる間だけでも娘が希望を持ち続けられるようにと偽りの言葉を紡ぐ。何より明るい娘の声に男自身が焦りを忘れる事が出来た。
遠くから響いてくる足音を久しぶりに耳にする。
待ちかねた時は訪れた。
従順なそぶりで男は自ら進み歩き凶王の前に出た。
「今日は随分と気迫が違う」
凶王は決意を秘める男の態度に気づいた。
「話がある」
「またあの娘の事か?」
男は今までも随分と娘を外に出してもらえるように願い出ていた。その都度凶王の不興を買うのだ。
「それもあるが・・・・今日は別の事が聞きたい」
「ふふん」
王は鼻で笑った。相変わらずその瞳は感情を表さない。暗く、冷たく凍ったままのガラスの瞳だ。
「お前は実に面白い。ここまで立場の違いも、力の差も歴然でありながら決して媚びる事はしない。どんな屈辱を受けようともその瞳が光を失う事も一度もない。さて、今日は何をしてわたしを楽しませてくれるつもりなのか・・・・」
玉座から立ち上がろうとする王の近くへと歩み寄った。
「【カイト】」
「なに・・・」
王は男の言葉を聞き返した。
「あなたがわたしに与えた名前だ」
王は再び玉座に腰をおろした。肘を付き男をじっと見る。
「ほう」
「この名は誰の名前だ?あの指輪は一体どんな意味があったんだ?」
男は王の眉がぴくりと動くのを見た。
「さあ、何の事を言っているのやら」
「はぐらかすな」
凶王はゆっくりと肺に溜め込んだ息を吐いた。
「あの娘の役割は大きかったとみる。さても、こんなに早く辿り着くとは思ってもいなかったわ。そんなに知りたいか?この世には知らない方が良い事は山ほどある」
その時がやってきたというのに、意味深な言葉を交えながら本題を濁す王の様子で男に迷いが生じた。
『知りたい』と強く願う思いの中に僅かに含まれる、相反する『知らない方が良い』と言う自己警告に近い気持ちが、真っ直ぐに王を捉えていた目を反らさせる。
王は男の中のその気持ちを見抜いた。
立ち上がると、今度は足の止まった男へと向かってずいっと一歩歩み寄る。
男の背の丈より僅かに目線の下がる王は、それよりも更に背を屈ませ姿勢を低くしながら間近へ顔を近づけて、男の顔を見上げた。
男の目は今度はそんな王から反らされることなくまっすぐに見返した。
「この名は・・・、この指輪は一体、誰の物だ」
「聞けば後悔するぞ」
その言葉にも、もう男の気持ちはたゆまない。
王は男からいったん離れ声高に笑う。
「何も勿体ぶることはない、わたしにとっては願ってもない展開だったな」
ひとしきり笑い終える王を男はじっと待った。
「【カイト】それは、名を授けることもなく、お前を置いて逃げた母がお前と共に生まれた者に付けた名だ」
「共に生まれた・・・?兄弟?わたしに兄弟がいたと言うのか?」
男は聞き返した。
「”兄弟”?その言葉が正しいかどうかは知らんが、共に生まれた・・としか言えんな」
「わたしに兄弟・・・・」
信じられないように呟いた後、はっと気を取り直して王に詰め寄った。
「何故、その名をわたしが?その兄弟をどうしたのだ?母はどうなったのだ?」
男の反応に王は少し不快な顔を見せた。
「何故母は自分を捨てたのだ、と先に問わない?」
言われて男は気づいた。気にならない訳ではない。しかしそれ以上に血を分けた者の安否が心配だった。
「それは、何か理由があったのだろう・・・それより・・・」
変わらぬ男の一番の質問に王は頭を振った。
「忘れたのか?それとも思い出したくないのか?」
王は男に向かい真っ直ぐ指さした。男はその指された場所、即ち自分の胸を見た。
それの意味するところを想像する男の顔色が青ざめていく。
「その魂。それは誰のものだった?」
はっきりとした王の言葉に男の顔がひきつった。
「まさか・・・・」
「生まれたお前は虚ろだった。その心は何も感じず、瞳は何も映さず、耳は何の音も捉えず、その口は音を発することもしない。わたしの為に作られただけの真っ白できれいなお人形。魂はお前の中に・・・」
男は途切れていた記憶を取り戻した。
始まりの記憶。
浚われる自分。そう思い込んでいただけであれは自分ではない。
目の前に鮮やかに蘇ってくる。王の手に掛けられカイトが命を終える最期のビジョン。
「凶王、何てことを・・・・」
想像の範疇を遙かに越えた王の言葉に男は激しい衝撃を受けた。
力を失い膝を付く。
「凶王か・・・いや、違うな。この器は不完全だ。その器。完全なるお前の肉体を手に入れた時こそ、まさに凶つ神であるわたしが持つ全ての力を操る現人神としてこの世に降臨する。その時にこそ待ち望み続けた約束が果たされるのだ」
男の耳にその言葉は遠く響く。
王は地に跪いたままの男の腕を手に取ると自分に引き寄せた。
「最初から空っぽの器など面白くもなかろう?」
男の瞳が失望に激しく揺れ動いた後、その口は短い叫びを一声あげた。
それを合図に残った男の身体の全ての力が抜けていくのを凶王は手に取った腕から感じていた。
「ほら、言ったとおりだろう?聞かなければ良かったものを・・・」
少し残る意識の底で男は自分の戻りを待つ娘の事を考えた。娘の為に何とか意識を保とうとする。
戻らなければ・・・・娘がわたしを待っている・・・
取り残される娘を思い笑おうとするが、自分の内に宿る魂の真相に巧く顔の筋肉が動かせない。沈んでいく心をもはや男自身にはどうすることも出来なかった。
すまない・・・・。
瞳の光が消える。
「やはりな・・・・、自分を置き去りにした母を恨まぬか、弟を妬まぬか・・・何故もっとわたしを憎まぬ?何一つ、外に向けず自分の内に沈め込むのか」
その様を見届けた凶王は、何の反応も示さなくなった身体を両の腕(かいな)に抱きしめた。
「失望し、絶望を知るその心・・・わたしに最も近しい今こそ、宿るべき器にふさわしい」
感覚すら失った筈の身体に、凶王から不思議なほどに暖かいものが流れ込んでくる。それが、漂う男の意識を完全には掻き消さず身体へと留まらせていた。
「カイト・・・・早く終わらせてくれ・・・・」
つづく
第3章 叛旗 1
2008-11-29
時は僅かばかりさかのぼり、サクの村が滅ぼされる前日へと戻る。その日、大地と豊穣の女神レーガ神を祀るサクの村は、一年の実りを感謝する祭りで賑わっていた。
娘たちは着飾り、豊穣の舞を女神に捧げる。中でも一際艶やかだったのは豊かなストロベリー・ブロンドの髪を持つ巫女媛である村長の娘。
両親の前、レーガ神の為に舞うその姿は皆の目を釘付けにした。
決して豊かとはいえないものの農耕で日々の糧を得、辛うじて飢えることなく信仰厚き村人は笑顔を絶やすことなく平和に暮らす。それが娘の育った環境だった。
しかし、平和はいつまでも続かない。穏やかに笑む村長夫妻の元に大地と豊穣の女神・レーガ神が姿を現した。
跪き深く頭を下げる二人にレーガ神は声をかけた。
「ランス殿・・・エルゼ姫・・・・顔をおあげなさい」
「如何なさいました?今日は一段と浮かないお顔をしておられます」
女神の表情の暗いことに気づきランスが口を開いた。
「今日は良い報せではない」
「まさか?」
笑みは消えた。
「凶王に見つかりました。騎馬軍団は既にここを目指しています」
レーガ神の言葉に村長ランスの顔が険しく強ばった。
「いつでございます」
「明日・・・・明日にはここに到着する事でしょう。わたしはあの狂うた王を止める術を持ちません」
レーガ神は外の騒ぎに視線を向ける。視線の先には巫女媛の姿があった。
「イリヤと言うたか・・・良い娘です。若い頃のエルゼ姫によく似ている。凶王の狙いはわたしを降ろす身のあの娘です。一刻も早くここから娘を逃がすのです」
母は急いで娘を呼びに走った。
「昔、シリンが言うておった・・・人は何故我らを神と呼び全能を求めるのか、と」
ランスはその言葉を黙って聞いた。
「まこと我らに人の運命など操れる筈もなかろうに、力及ばぬ事ばかりです。わたしにはどうすることもも出来ません」
「我らは何を求めるでなく、あるがままに任せます。あなた様の存在そのものが我らの心の支えでございました。城を落ちて二十五年、よくぞ今まで我らをお守り下さいました。我らはみな元はテーベの士。既に覚悟はできております。どうか、お心痛めなさいますな。これよりは我らが・・・」
レーガ神は頷いた。
「わたしはあの娘の名に宿り密かに護りましょう。決して村の外ではその名を口外させてはなりません」
ランスは深く頭を下げた。
「さ、時間が押し迫っています。早く・・・・」
「レーガ様、・・・・・・・やっと時がやってきたのです」
「父上。お呼びですか?」
程なく何も知らない娘は頬を紅潮させ至上の笑顔で父母の天幕の中へと入ってきた。
レーガ神は既にその姿を消していた。
「お前にカイトを探す事を命じる」
幼い頃に突然消えた幼なじみ。行方を追うことは禁じられ、その名を口にする事さえ封印されていたカイトを探しに行けという。突然の父の言葉に娘は戸惑った。
「父上?一体何を突然・・・・」
娘は今までもカイトを探しに村を出ようとし試みたものの、その都度見つかっては厳しく処罰されていた。
その父の言葉は信じられないものである。
「嬉しくはないのか?」
「嬉しいが・・・・、なにか変だ。父上、どう言うことだ?今更カイトを探す事を許されるというのは・・・・」
「説明をしている暇はない。急ぎなさい」
急かされるままに、娘装束を脱ぎ綺麗に結い上げた髪を解くと短く切って旅支度を整える。
「弟や妹たちにも別れの挨拶を・・・」
「そんな猶予はない。早く行きなさい」
ただただ急かされて、最後まで理由を明かそうとしない父母に別れを告げた。
娘はまるで追われるように村を後にしながら、それでもカイトを探しに旅立てることに心は浮き立っていた。その心が父母のただならぬ様子を見過ごしてしまったのである。
娘を見送った後、集められた村人は急を告げられた。
しかし、誰しもが慌てふためくこともなく黙って村長ランスの話を黙って聞いている。
そして老若男女に関わらず、かねてより準備していたかのように各々の持ち場についた。これから凶王の襲撃を受けると知らされた村とは思えぬほどにとても静かだった。
「ランス殿・・・とうとう、この日がやってきましたな」
付き従う男の中の一人がランスに話しかけてきた。
「我らは愚かな行為ゆえに、国の宝である王子を犠牲にしシリン神を失った。ただ城から落ちのびるしかなかったあの日の無念、忘れてはおりません」
男を筆頭に背後に控えている者たちを振り返ると重く閉ざしていた口を開いた。
「諸侯らはこれで良かったのか?」
他の者たちも黙って頷いた。
「姫には何一つとして真実を語らなかった。あの娘は何を選択してくれるのか・・・・」
村長は娘の旅だった方角をじっと見つめていた。
「全てはカイト様と姫の御心のままに・・・姫に我らが昔日の思いを託しましょう」
村から外に出た娘は、途中虚ろな瞳で遠くを見つめ佇む人々に出会った。
声をかけてみるが反応がない。人々の見つめる方角に目を向けると遠くに土煙が舞いあがっているのが見えた。何か大勢が駆けていくようである。
「あれは、何だ?」
娘の問いに肩を震わせて地面に泣き崩れる者もいた。
尋常ではない反応の人々を怪訝に感じながらも先を急ぐので、娘はそのまま立ち去った。
人々は凶王に滅ぼされた村の生き残りだった。
村は焼き払われ明日の当てもなく目的を失った人々はただその地にしがみついて、凶王の影に脅えながらその日を生きるより術をもたない。
娘は外の世界にはそうして生きる望みを失った人々が沢山いる事にまだ気付いていなかった。
つづく
第3章 叛旗 2
2008-11-30
行き交う人のない道をただ黙々と歩き続ける。娘がやっと宿となるような店をみつけた時には既に陽は落ちていた。
店の前まで来ると、今まで歩いてきた道が嘘のような賑わいが外まで聞こえてくる。
扉を開けると大勢の人間で溢れ返っていた。
娘は店内を見回して片隅に一客あいているテーブルを見つけ静かに腰を下ろしパンとスープを注文する。人々で賑わってはいるが、どことなく退廃的な印象を受ける。村とは全く違う世界に娘は好奇の目を向けた。
皿をテーブルに運んできた気の良さそうな店主が声をかけた。
「ぼうず、お前さんどこから来たんだい?」
娘の出で立ちに女だとは気づかない。
「日の昇る方角さ」
娘は物怖じせずに簡潔に応えた。
その声に騒ぎの中心にいた男たちの中の一人が娘に目を向ける。
店主は続けて聞いてくる。
「で、どこへ行くつもりだい?」
「当てはない。ないが、まずは人の集まるところへ行こうと思ってるんだ」
「日の昇る方角には”サク”と言う村がある。知っているか?」
娘を見ていた男が話しに割り込んできた。兵士崩れと言った風体の男は娘の前の席に腰を下ろした。
知っているも何も、その村から出てきたばかりである。しかし、男を訝しんだ娘はすぐには答えなかった。
「あんたは?」
「ああ、名乗らず失礼したな。俺は各国を渡り歩く雇われ兵のアークってんだ」
男は無精髭の下から人懐っこい笑顔を向けた。30~40代と言ったところだろうか、娘は男を観察した。隙のないこなしは百戦錬磨と言った風にも受け取れる。如何にも、な感じだ。
「それで?その村が何だというんだい」
素知らぬ顔をして聞いてみる。
「俺はこれからそこへ向かうところなんだ。そこの村長とは旧い馴染みでな。ぼうず、行く当てもないのなら一緒に来ないか。あそこはいいぞ・・・」
「サクの村だって?本当にあるのか?」
また別の男が口を挟んだ。
瞬く間にテーブル周りには人だかりが出来た。同じ台詞を誰もが口にしている。
店にいた男たちに取り囲まれて娘は少し緊張した。
皆がアークと名乗った男の言葉に深く興味を示して詳しく聞きたがった。
「俺は探してみたこともあったが、どうしても辿りつけなかった。噂でしか聞いたことがないぞ」
「そいつは気の毒に・・・さては邪心に満ち満ちてはいなかったか?」
男ににやりと意地悪く笑ってみせた。
「どう言った意味だい。そいつは」
「あそこはあの戦で都を追われたテーベの民の村だ。この世界に存在する唯一の聖域と、どこの国もが一目おいている。邪心を抱く者は誰一人として立ち入ることが出来ないとも聞くぞ」
「なるほど・・・・では、その村の村長と知り合いだと言うお前さんも怪しいもんだぞ」
「言われてるぞ。アーク」
アークと名乗った男の連れらしい男が声をかけた。こちらはアークとは違い兵士としての身なりは整えていた。
見たところここの客はどうやら二分されるようだ。アークのような雇われ兵。そして各地を渡り歩く商人。
「うるさいぞ、ラウ・・・・。しかし、そいつぁ違いない。あははは・・・」
アークは豪快に笑った。
娘はそのやりとりを目を丸くして聞いていた。
普通に自分の生まれ育った村に人々がそんなに興味を示す事が、外の世界を知らない娘には不思議でならない。
「今頃はもうないさ」
店のさらに奥まったところに座っていた男が囁いた。
皆が一斉に注目した。
豪快に笑っていたアークの顔もその言葉に気色ばった。
「それはどういう意味だ?」
酒をちびちびやっていた男は残念そうに頭を振った。
「今朝方さ。凶王精鋭の騎馬軍団が駆けていくのをみた。俺の知る限りはこの先にはもう村はない。奴らは隣国に赴くには軽装備だった。あんたのいう村が本当なら奴らが目指した先はそこなんだろう」
「ばかなっ!!」
アークは男の言葉が終わるか終わらぬかの内に叫んで立ち上がった。あまりの勢いに一瞬にして場は静かになった。
握りしめる拳がわなわなと震えているのが見える。
娘は自分の村の危機を悟った。
「ラウ、後は頼む」
「おい、アーク・・・・待て一人じゃ無理だ・・・」
止めるラウの声も聞かずに瞬く間に店の外に走り出ていた。娘も慌てふためいてその後を追いかける。馬を用意するアークに追いつくとその腕にしがみついた。
「連れていって・・・・」
「何を馬鹿なことを」
言いかけてアークは言葉を切った。娘の切羽詰まった面もちに全てを理解したようだった。
「よし、乗れ」
娘が背にしがみつくのを確認すると全力で駆け出す。
アークは無言で馬を走らせた。娘の胸に押さえきれない不安が押し寄せてくる。
見慣れた景色が見えてくる。村を知るというアークの言葉は嘘ではなかった。
進むに連れて、きな臭さが風に乗ってくる。前方の空が赤く染まっているのが見えたと思ったらすぐに灰色の煙が視界を奪う。もう村まではあと僅かだった。
しかし突然スピードを落としたアークは山間いに入り馬の足を止めた。
「遅かったか・・・・」
木々の間から小さく村が見える。正確には村だったものの残骸だ。変わり果てたその姿に娘は目を覆った。
「どうして止まる?村まで行って・・・」
動こうとしないアークに縋り付いて頼むが、アークは首を横に振るばかりで手綱を引こうとはしない。
「もう手遅れだ。奴らはまだその辺りにいるかも知れない。見つかる前に引き返す」
アークの言葉に娘は強引に馬から飛び降りた。体中を打ち付けたが、気にも止めずに立ち上がると村を目指して走り出した。
アークは娘の突然の行動に驚いたが即座に手綱をさばき後を追う。馬の足にかなう筈もなく娘を追うアークの腕にすぐに掴まった。
「放せ・・・放せー!!」
暴れるが力強いアークの腕はびくともしない。
「ばかな真似は止せ。今更お前さんが行ったところでどうにもならん。とっ掴まるのがおちだ」
「だからといって、引き返せるか。あの中には父が・・母が、幼い弟や妹がいるんだ。いる・・・ん・・だ・・・」
鼻につくくすぶる煙に、どうにもならない事を知り娘はアークの腕の中で泣き崩れた。
腕の中の柔らかい髪を撫でつけていたアークの手が止まった。
「その髪・・・そうか・・・お前さんはランス殿とエルゼ姫の・・・・」
その言葉に娘は涙でぐちゃぐちゃになった顔をあげた。
「わたしの事も知っているのか?」
「一緒に城から落ちのびたあの日をお前さんは憶えちゃいまいがな。俺もまだてんでガキだった。」
「テーベの都?わたしは何も憶えていない・・・・」
再び涙がこみ上げてきた。
「王が・・・・、『凶王』と人々が口にする男がわたしから全てを奪った・・・・」
理不尽さに娘の心に小さな憎しみの炎が宿る。
「それは違う!」
アークは思わず叫んだ。
「何が違うんだ」
「王は・・・・、いや・・・」
アークは言いかけた言葉を飲み込んで顔を逸らした。
「お前さんはその身に神を下ろす巫女媛だ。人を憎んじゃいけない。そうランス殿に教えられなかったか?」
娘は父を思い出す。確かにアークの言うとおりだった。しかし、そう簡単に割り切れるものではない。
「あんたにとっては結局は他人事だからそんな事が言えるんだ!」
感情に任せて乱暴な言葉を吐いた。自分自身でもわかってはいたがぶつける先のない怒りにどうすることも出来なかった。
「俺だって、悔しい・・・が、どうにもならんのだ。今までにも何度こんな思いをしてきたか、しかし、今は耐えるんだ。無駄死にをしても死んでいった者たちは喜ばん」
娘はしゃくりあげる。溢れる涙は頬を伝い滴り落ちた。
アークはとにかく娘が落ち着くのを待った。
つづく