闇に棲む猫(オリジナル版)
2008-07-01
「もう手の尽くしようがありません。」医者が言った。
ここは動物病院の診察室だ。この場にいるのは男、獣医師・・・、そして診察台の上に一匹のやせこけた黒ネコが力無く横たわっている。男が家族のように大事にしている愛猫・クロだ。
目の前にはバリウムの流れを時間経過毎に投影したフィルムが何枚も並べられていた。
何れの写真も消化を示す白く浮き上がったバリウムの影は一行に進んでいない。
つまりそれは腸のある部分に出来た腫瘍が腸管を圧迫して消化の邪魔をしているのであろう事を示している。獣医師がそう説明をする。
食べた物が通過しない為に生命維持に必要なだけの栄養を摂取する事が出来ない。あちこちに転移した腫瘍にもう幾度と無く手術を繰り返してきた。既にクロの体力は限界だった。前回、次はないかも知れない。と宣告されていた。判断が男に委ねられる。
最後の最後まで諦めずに手術をするか、これが寿命と諦めてあとは自然に任せるのか・・・・。
ゆっくりと考える時間の余裕などない。これまで幾度となく耐え抜き戦ってきた小さなクロの身体を前に決断を迫られる。
「これ以上はもう・・・・。」
男が声をだした。苦渋の決断である。
積極的な治療の断念。それは緩やかにでもやってくる確実な死を意味していた。しかし、手術で生き延びる確立は極めて低い。そのまま眠りから醒めない可能性の方が高かった。そして獣医師の説明する予後の寿命も決して長いものではなかった。
男はせめて、残りわずかでも一緒にいられる事を望んだのだ。
しかし、それは考えたよりもきつかった。食べられないクロは目に見えて弱っていく。
僅かに残った力を振り絞り男に擦り寄っては甘えてくる。男には何も出来ない。がりがりに痩せた身体を見るのが辛い。
食べられない事が何を意味するのか・・・・・、餓死。
食べたいのに食べられないのか、もう既に食べる力もないので食べられないのか・・・・それは想像出来ない。
苦しんでいる様子はない。ただ穏やかに身を任せて眠っているようにも見える。
しかし、男は分かるはずもないその苦しみを思う。そして願う、十分だから、もう楽になって欲しい・・・と。
それは思いやりか、果たしてエゴか?・・・・男はクロを前に自分自身に問い続ける。
それから暫くしてクロは16年の生涯を閉じた。移動火葬車から天に立ち上る煙に今まで一緒に過ごしてきた日々が頭を駆けめぐる。
小一時間ほどで全てを灰にしてクロは白い骨だけになった。それを一つずつ骨壺へ移していく。
小さな骨壺に納められたクロを部屋の片隅にそっと安置した。
男は泣かなかった。泣けなかった。悲しくて悲しくて仕方がないのに涙が出てこない。
クロは幸せだったのだろうか・・・・?
物言わぬクロを大事にした。大事にしたつもりだった。・・・しかし、言葉を持たぬクロは何も言わない。伝えられない。果たしてそれはクロが望んでいた事だったのだろうか。やがてその考えは一つの疑念に到達する。あの選択は間違っていたのではないか。
「自分がクロを殺したのだ」
悲しみは自責に変わり重く心にのしかかってきた。
楽しかった思い出は悲しいばかりの思い出に変わり、嬉しかった思い出はクロが闘病に苦しんだ毎日の思い出へ姿を変える。
一人残された男に時間だけはいつもと変わらず残酷に流れてゆく。
ある夜、身体が突然に押さえつけられた。それは黒い霧に覆われ定まった形を持たない。時には男の手足を捻り、口を押し開き、食道を通り胃を満たし腸に到達し内部からじわじわと外へ向け膨張する。ちりちりとした痛みに、細胞一つ一つの結合が解かれ千々に裂かれていく様を実感する。心臓が鷲掴みにされ冷たい汗が噴き出す。夜毎に得体の知れない黒い霧は男を苦しめた。やがて日中ですら姿を現すようになったそれに男は憔悴しきっていた。ふらふらと外へ出かける男の足には最早、地を捉えている感覚はない。
なのにその足下に何かの気配を感じる。何か・・・・。何か・・・・。覚えがあるその気配に回らぬ頭で記憶を探った。
時には優しくふんわりと、時には強引に押しつけるように纏わりつく細い尾の感触。頭を押しつけているのであろうか。時折突き上げるような感覚が蘇る。その気配クロだった。身体全体で精一杯の愛情表現を示してくれたクロだった。
クロはあんなにも自分を慕っていてくれたではないか。それを全否定しようとしたなんて・・・・、男の胸にこみ上げてきた思い。それは大粒の涙となって流れ落ちた。男はクロを失ってから初めて涙を流した。胸につかえていたものを全て押し流すかのように涙は溢れ続ける。
黒い霧のような影が消え去っていく。その中に覆い隠されていたように輪郭の不鮮明なクロが姿を現す。
にゃぁお・・・・と男を見つめ嬉しそうに小さく声をあげると天へ向かって消え去った。
オリジナル版をアップ♪
全然ホラーじゃないんですよね。
これを手直しして800字にしました。
まあ、何と申しましょうか、『ペットロス』における負の感情の波です。
800字に再度 挑戦!
2008-07-03
800字ホラー、再度挑戦。でも、これで最後・・・・・(^^;)
いやぁ、ホラーってわかんねぇです。
一度ホラーを読む必要があります。自分。
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えくすたしぃ
男は今日もいつもと同じ台の前に腰を下ろす。
何気なく立ち寄ったパチンコ店で台を物色しながら店内を歩いていた男は誘われるように一つの台の前で止まった。
その日男はバカつきをした。
その後何度かその店に足を運んだ男は他の台を試した事もあった。が、他では男の欲求が満たされる事はなかった。
他の台の玉の出が悪いわけではない。
ただ、何かあの時のような手応えを得る事が出来ないのである。
その台は男の大のお気に入りになった。
男はまるで憑かれたようにその台ばかりを選ぶ。
ハンドルを握っているとまるで人の肌に触れているような錯覚に襲われる。
血が通う如き暖かさ、時には指を絡めてくる。
男の血圧は上がり心拍数が増す。
何度もリーチがかかりその都度、空振る。
押しては引き、引いては押す。
それはまるで恋愛毎のように男を虜にする。
男は病み付いたようにその台から離れる事が出来ない。
有り金全部を注ぎ込んで一日中をその台の前で過ごした。
そして閉店時間になると別れがたい恋人にするかのように台に口づけて帰るのである。
ある日訪れた男の顔を見て思わず店員は目を見張った。
目は落ちくぼみ顔色はすこぶる悪い、しかし目だけがギラギラとしている。
いつものように腰を掛け男はコインを投入する。
いつものように・・・・しかし、いつもとは違っていた。
引きがこない。
出っ放しの銀色の玉に男は異常に興奮した。
完璧に自分を受け入れて貰えた喜びの中で血液は逆流し鼓動は強く激しくなった。
血管は一気に膨張した。・・・天にも昇り詰めるかの如くのエクスタシーが男を襲った。
・・・・・男の姿が消えた。
ユーザーのいなくなった台からは銀色の玉だけがいつまでも弾き出され床へと転がり落ちる。
紫煙がくすぶり、感覚をマヒさせる音楽、そして熱狂と興奮に支配された店内の客がその事に気づく事はなかった。
女は何気なく目に付いたパチンコ店に立ち寄る。
引き寄せられるように一つの台の前に腰掛けた。
儀式
2008-07-05
暗いっすよ。最初に言っときます。で、間違っても自分の体験じゃないっすよ(^^;)
詩のようなもの・・・・
でも、訳わっかんねぇ〜(笑)
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凍てつく輝き
鋭利なる刃
瞬時の感覚は無痛
次に激痛
脈動に同期
溢るる色は命
伝い離れる小さな蕾
宙を舞い花開き
真紅に燃え盛り
ひとつ、ふたつ、みっつ
はらり、はらり、はらり
重力の中とらわる
おりかさなる
広がる
・・・・広がる
死を望むでなく
注目を望むでなく
自分への儀式
痛覚は自己確認
色は存在理由
闇に還る全ては無
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今外なんですがね、なーんてものを書いてる横で、おっちゃんがカレーを食べています。
そして、前に座った子供に向かって
「レインボーマン」
のオープニングを歌っておりましたとさ・・・・。
うはっ!
いや、好きだけどさ・・・・、イメージがぶっ飛んだわ・・・・(^^;)
レインボーマン → イナズマン → コンドールマン
と連想ゲームのように広がるんだけど・・・・。
【短編】 仔猫の見る夢
2008-07-13
トクン・・・・トクン・・・・・
仔猫たちは、お腹の中でお母さんネコの心音を感じます。
兄弟仔猫は5匹。みんな同じように規則正しいリズムと、羊水のゆらゆら揺りかごに揺られながらまどろみます。
お母さんネコはお腹の仔猫たちに、毎日いろんな事を語りかけます。
そして最後に「元気で早くでておいで。」と添えます。
お腹の仔猫たちはまだ目も見えません。耳も聞こえません。でも、お母さんネコの語りかける声を振動でリズムとして捉えます。
お母さんネコは仔猫の言葉を胎動で感じ取ります。
「お母さん、お母さん。もっとお話して・・・」
好奇心旺盛な仔猫がおねだりをします。
お母さんネコは知っている事をたくさん伝えようと話をします。
見たことのない世界。聞いたことのない音。
仔猫たちは外の世界に出るのをとても楽しみにしていました。
「でも、外には怖いことも沢山あるから気を付けるのよ」
お母さんネコは、注意をする事も忘れていません。
仔猫たちが光を感じる時がやってきました。
まだ目は開いていないので、閉じた瞼の裏から明るさを感じるだけです。
「ぴゃぁ、ぴゃぁ・・・」
「ぴゃぁ、ぴゃぁ・・・」
みんな元気な声をあげます。
僅かに震える空気に仔猫は兄弟猫たちの存在を感じ取ります。
「これがお外なのかしら」
小さな手足をもぞもぞと動かします。
ところが、感じていた明かりが突然に遮られました。
「何だろう?どうして?お母さん・・・どこ?」
仔猫は不安になりました。濡れたままの身体も冷たくなっていきます。
「寒い・・・・」
でも、しばらくしてから、ぞり・・・ぞり・・・ぞり・・・。
身体中に何かを感じます。お母さんネコが仔猫の濡れた身体を舐め取ってあげています。
ぬくもりが仔猫を包み込んでくれます。そして、目の前から甘い香りがしてきました。
仔猫は、小さなお口をぱっくりと開けて甘い香りがしてくる場所に吸い付きました。
口一杯に広がる液体は、何とも言えない味がします。ほっぺがおちそうです。
「これがお腹の中でお母さんが教えてくれた”おいしい”って事なのかしら。」
仔猫は生まれて初めて飲む行動とおいしいの意味を知りました。
舌を上手に使って夢中になってコクコクと吸いついて飲みます。
お腹の中にいる間にお母さんネコはいろいろな事を教えておいてくれました。
他の兄弟ネコたちも同じように飲んでいるのでしょう。聞こえないし見えなくても気配でわかります。
枯れる事なく出てくるお乳に仔猫はお腹も一杯になって眠たくなりました。
お腹の中にいる時とは違って、ちょっと身体が重たく感じるけれども、ふわふわで暖かいぬくもりに包まれている感じは同じです。
口を離して小さな鼻孔から空気を一杯吸い込むと、ことりと眠ってしまいました。
お腹が空いたら目を覚ましてお乳を飲んではまた眠ります。仔猫はその間ずっとお母さんネコのぬくもりを感じていました。
不安になる事はありませんでした。
仔猫たちは兄弟ネコたちとすくすくと成長しました。
手足の力もついてきてずりずりとそこら中をはいずり回ります。お母さんネコは仔猫から目が離せません。
閉じていた瞼は開きものが見えるようになります。そして塞がっていた耳もピンとたち、音も聞こえるようになりました。
お母さんネコが見えます。
兄弟ネコたちが見えます。
お母さんネコの身体によじ登ったり、はいずり回るばかりだった仔猫たちも自分の足で立って歩けるようにもなりました。
行動範囲が増えるとますます、お母さんネコは目が離せなくなります。
時にはお乳を吸っている兄弟ネコをその場に残して、遠くへ行き過ぎた仔猫をくわえては戻ってきます。
仔猫は好奇心が旺盛です。
お母さんがお話してくれた世界を早く見たくて仕方がありません。
吹く風、お日様、空、雲、昼、夜、お星様、土、車、人・・・・・・。
仔猫はいろんな事を覚えていきます。
狩りをする事も教えてもらいました。
お尻をあげてしっぽでバランスを取って、タイミングを逃さずに飛びかかります。
兄弟ネコと遊びながら、加減というものも覚えていきます。
やんちゃが過ぎるとお母さんネコに叱られる事もあります
赤ちゃんだった仔猫はあっという間にしっかりとした一人前のネコに成長しました。
兄弟ネコたちはそれぞれに巣立っていきました。
最後まで残っていた仔猫もお母さんと別れる日がやってきました。
仔猫を巣立たせる為にお母さんが帰ってこなくなったのです。
仔猫は一人で生きていきます。
お母さんネコは本当に生きていくために必要ないろんな事を教えてくれました。
一人でご飯を見つけ、暑い日には日影を探し、風のある場所を探します。
寒い日には風をよける事の出来る暖かい寝床で眠ります。
春、恋の季節に仔猫も恋をしました。
黒い鉤づめしっぽの立派なオスネコです。
仔猫はお母さんネコがしてくれたように子供たちを育てます。
そして無事に仔猫たちを巣立たせました。
いろんな事がありました。
人間の子供に飼われた事もありました。
怖い犬に追いかけられた事もあります。
仲間のネコたちも一杯出来ました。
仔猫の人生はめまぐるしく、まるで走馬燈のように過ぎていきました。
そんな仔猫にも寿命がやってきます。
身体はもう動きません。
そんな仔猫の元にネコが姿を現しました。
「お母さん」
それは忘れもしない懐かしいお母さんネコの姿です。
仔猫はお母さんネコに向かって駈けていきます。
「お母さん。わたしね、いっぱいいっぱい、いろんな事を見たよ。経験したよ。苦しい事もあったけど、楽しかったぁ。」
老ネコになっていた仔猫の姿は若ネコの姿になりやがて仔猫の姿へ、そしてお母さんネコの元に辿りついた時は赤ちゃん仔猫の姿へと変わっていました。
「お母さん、あのね、あのね、わたし生まれてきて良かったぁ・・・・・。」
赤ちゃん仔猫の姿は光に包まれてそのまま動かなくなりました。
お母さんネコは優しく赤ちゃん仔猫を口に咥えました。
そして赤ちゃん仔猫と同じように全身が光に包まれたかと思うとそのまま消えていきました。
「お父さん、お父さん、早く来て。ネコが・・・・・。」
小さな女の子が叫び声をあげました。
子供に呼ばれて父親が駆けつけます。
そこにはへその緒がついたままの生まれたばかりの仔猫が5匹、ぼろ切れにくるまれて捨てられていました。
そして、その横には母ネコと思われる成ネコも血を流して倒れていました。
赤ちゃん仔猫は生まれたあの日、光が遮られたあの時に死んでいました。
お腹にいる時にお母さんが沢山教えてくれた話で自分の一生を夢見たのです。
母ネコは飼い主の知らぬ間に仔猫を生みました。
それを知った飼い主は、生まれたばかりの仔猫を母猫から取り上げたのです。仔猫を取り返そうと必死で抵抗した母ネコは壁に叩きつけられて絶命しました。
そんな親子はまるでゴミのように捨てられたのです。
【短編】 蜘蛛の糸 〜人外魔境 外伝〜
2008-07-24
人の立ち入らない密林の奥深く、そこは人外のものたちが織りなす生の饗宴が営まれていた。ひっそりと気配のない、そのまた奥で女がひらひらと艶やかに舞を舞っている。
いや、遠目に映るその姿がまるで舞いを踊っているようでもあるだけで、決して女はそんな悠長な状況に身を置いているわけではなかった。
その女は頭を振って見事なブロンドの髪を後ろへと流した。
髪の間より現れた顔はとても美しかった。深いブルーの輝きを放つ瞳に、僅かに潜められた眉。青ざめた顔色が一層それを引き立てている。額には玉のような汗が浮かび転がるように流れる。足掻くように四肢を動かす。
「ああ、もう・・・・・。」
自分の力ではどうにもならない事態に苛立ちげに声をあげる。空を仰ぎ見ながら溜息を付いた。
天上高く、月が青白い光を見せている。
差し込む月光はキラキラと女のブロンドと・・・・そして、その背にある見事なまでの金色に光る羽を照らし出す。そして、女を捉えている芸術的なまでに張り巡らされている虹色に煌めく糸をも鮮やかにはっきりと浮かびあがらせた。
妖しいまでに煌めく獲物を捉える細く、美しく、しなやかに編まれた糸。
絡め取られた羽は羽ばたく事が許されなかった。誘うかの如く動かされる四肢は動かすほどに締めあげられていく。
何度か、脱出を試みたものの、無駄を知った女は気持ちを静めると息を殺して周りの気配を窺った。
そこかしこに、枯れた死骸が転がっている。思わず息を呑んだ。恐怖がその瞳に浮かぶ。この状況から逃れる術を探るが、いくら考えあぐねてもいい案は浮かばない。やがてこの罠の主が姿を現すだろう。迫る死を待つしかない。
再び羽ばたくべく両の羽を動かしてみる。片羽に焼け付くような痛みを感じた。
先ほどまでは、死に物狂いで藻掻いていた為に痛みに気づく暇すらなかったのである。
傷めた片羽を見やると、再び深い溜息を付いた。
ゆっくりと長い睫に縁取られた瞳を閉じて女は考えを巡らせた。
<スパイダー>の糸に絡め取られた者に逃れる術はない。よしんば逃れられたとしても片羽を傷めてしまってはこの先の未来はない。
女は閉じていた瞳を開けた。
自分の先を知る女は、無駄に希望を繋ぐのは止めにした。潔い決意。この世界では生か死か、その二つでしかない。力の無い者は死にゆくのみ。それ故、一瞬、一瞬を力の限り生きる。
しかし・・・・、と女は腹に視線を落とした。
雲が月を覆い隠す。押しつぶされるような暗闇が訪れる。二つの紫色の瞳が闇に光り女を見つめていた。
その瞳の持ち主は、この罠を張り巡らせた<スパイダー>本人だった。
虹色の糸は月光を浴びると妖しく煌めき、芳しき香りを放ち獲物をおびき寄せる。この一角は天敵の存在しない,<スパイダー>である男の王国である。
これより少し前に空腹の男は、糸の動きで網に掛かった獲物の存在を即座に感じ取っていた。
様子を窺いみる男の目に飛び込んできた美しい獲物に我を忘れた。金色に輝く羽に目を奪われた、いや奪われたのは目だけではない、その心までもが単なる獲物である筈の女に奪われてしまったのである。
男は飽くことなく、女を見つめ続けていた。
そんな男に月光の陰りが、次の行動に移すことを促した。男は張った糸の上を音もなくするすると移動する。
女は紫の二つの光が自分に向かって動いているのを見た。
ゴクリと喉を鳴らす。冷たい汗が流れ落ちた。その光は目の前で止まる。この距離までくると、流石に女もそれが何者の気配であるかを本能的に感じ取った。闇に乗じて襲い来るかと身体を堅くしたが、それ以上に動く気配を見せない。
雲は切れ、遮られていた月光が蘇る。
差し込まれた光は、隠されていた存在を照らし出す。女は目の前に現れた姿にはっと息を呑むと、目を見張った。
鍛えぬかれた見事な肉体を黒装束に包み、端正な・・・この世の者とは思えぬ程、過ぎるくらいに美しい顔をした男。
<スパイダー>の一族の姿は美麗であると聞いてはいたが実際にその目にしたものは数少ない。その殆どが還らぬからである。
男の美貌に女の胸は高鳴った。この生きるか死ぬかの場面においても享楽を選ぶ、それが彼らの本能である。
女は男の目にも同じ輝きを見て取った。
「お前・・・・名は?」
彫刻のような唇が動いた。声すら耳に心地良い、よく通るテノールで美しい。
「ベルゼブブ様付きの侍女、カミエラ」
「ベルゼブブ・・・【蠅の王】か・・・・」
「ぬしが・・・<スパイダー>か?」
「・・・・・」
男は答えなかった。カミエラの方へと手を伸ばす。反射的に身体は硬直した。しかし、男の手はカミエラには触れずに絡まった糸を外そうと試みているようだ。カミエラは不思議そうな顔を向けた。
「何をしておる?」
「外す・・・」
素っ気なく男は答えた。
「無駄じゃ。張ったぬしが一番よくわかっておろうぞ。それにこの羽・・・よもや生き延びようとは思わん」
その言葉にも応えず男は自分の糸を解こうと手を動かし続けた。男の体温を身近に感じ、カミエラは頬が紅潮し火照る身体に、自分が欲情しているのを感じていた。
<スパイダー>の糸に絡められた者は逃げる事は叶わない。それは張った本人にすら解けない呪縛の糸。
「くそっ!」
どうしても思い通りにならない糸に男は美しい顔に似つかわしくない言葉を発した。
「もう良いから、名を聞かせろ」
男はカミエラの顔を見た。そして、やっと名乗った。
「アスラル」
「良い名じゃ。アスラル、これも縁。何も遠慮する事は無い。ぬしは本能に従い我を食らえば良い」
カミエラの言葉にアスラルは頭を振ると、「待っていろ」 そう言い残して姿を消した。
身動きの出来ないままに、カミエラは一人残された。真上にあった月は傾き、空が白み始めた頃にやっとアスラルは戻ってきた。
華蜜を手にしている。<スパイダー>の食料ではあり得ない。カミエラは自分の為にである事を理解した。
アスラルはそれを自分の手のひらへと垂らすと、カミエラの目の前に差し出した。
「飲むがいい」
口元に持ってこられた長い指を見つめた後、ゆっくりと口を付けて喉を潤す。自由にならない身では上手に飲むことも出来ず、零れた蜜は形の良い口元を濡らす。そのカミエラの姿にアスラルの身体が疼いた。
異種間での交合は殆どあり得ない。しかし、沸き上がってくる欲情にアスラルは戸惑った。まして、襲ってくるのは性衝動だけではない。その喉に牙を立て喰い殺してしまいたい欲望までが頭をもたげる。無意識の内に口の間から鋭い牙がのぞく。
口を付けて華の蜜を吸い続けるカミエラの瞳が妖艶な炎をちらつかせながら、そんなアスラルの顔を上目遣いに見つめた。
一旦、口を離した。赤い舌を唇に沿って動かし蜜を舐めとった。その仕草にアスラルの欲望は益々掻き立てられる。
「無理をする事はない。食欲は純粋な我らが本能。それに従うがよい。このように囚われの身で生きていくのも辛い」
カミエラは、一呼吸おいてから言葉を続けた。
「だが、その前に・・・・」
蜜を吸っていた舌をアスラルの手に這わせた。アスラルの身に、これ以上抗う事の出来ない激情が押し寄せる。
「ぬしほど美しい男に抱かれて終わるも一興。我らが刻は短い。さあ・・・・」
カミエラに誘われ、理性が弾け飛んだアスラルは全てを本能のままに、自ら張った糸に捕らわれ抵抗する事の出来ぬ美しいカミエラの身を何度も食らい付くすように貪った。絶頂を迎えたカミエラと同時に、身体に何か違和を感じたが本能のみが剥き出しとなっているアスラルには、さりとて、その理由を言及する余裕がなかった。
最期の一滴までカミエラの体液を搾り取る。
カミエラの身体は朽ち果て、虹色の糸には美しい金色の羽だけが残った。
アスラルはその金色の羽の側から離れる事が出来なかった。心には鮮やかにカミエラの姿が蘇る。時折掛かる羽虫を餌に命を繋ぐ。
やがてアスラルは自分の身体の内に起きている異変に気が付いた。あの一瞬に感じた違和の理由を知り、微笑をたたえ頷いた。
時は満ちる。アスラルの手は、損なわれる事の無い美しい金色の光を放ち続ける羽へとのばされた。そして、小さな呻き声と共にアスラルの命も終わった。
その背がゆっくりと割れてゆく。
美しい金色の羽が覗く。ゆっくりとそれは全貌を現した。
羽が成熟するのを待った後、大きく金色の羽を広げアスラルだった者の背から飛び立った。虹色の糸を遙か下へと見た後、戻るべき場所、人外魔境宮廷へと飛び続けた。
「・・・・ゼブブさ・ま・・・。ベルゼブブさま」
宮中に玉を転がしたような声が響く。
王座に座する男は声のする上空を仰ぎ見た。頭上より金色の光が降り注ぐ。ベルゼは目を細めた。
「カミエラ・・・今回は、随分と戻りが遅かったな」
降り立った金色の羽を持つ女は見事な黒髪を掻き上げると、【蠅の王】の前に跪いた。
「ほう、また再生したのか?・・・・お前に喰らわれる男も哀れよ」
カミエラが、妖艶な微笑を浮かべる。
「今回は不可抗力じゃ」
ベルゼは声を押し殺すかのように嗤う。
「さて、無事に舞姫も戻った事だし、久しぶりに饗宴の始まりとしようぞ」
− 完 −





